元祖SHINSHINさんのブログ
空手の型と実践
オイラは若い頃、糸東流空手をかじったことがあるのだが、
体は硬い、型は覚えられない、組み手は反則する、視力も悪い
というわけで、1年保たずにに止めたのだった。
師範は、東工大出身の年配な兄弟だった。
渋谷などでその道の人たちとやらかしたりなんかして、
かなりの無頼派だったんだが、
驚いたことにこの人たちは、部費を持って失踪してしまうという
小説のネタになりそうなことをしてくれた。
でも、これは余談。
わからないながらに空手の型という、
オイラの場合には、阿波踊りみたいなことをしてたんだが、
あれって、小説にも応用できる話なんだろうと思うようになった。
いわゆる起承転結とか序破急の先にある話としてだけど。
佐藤亜紀は著作の中で、物語の構成は○×種類しかないって、
すごいことを書いていたのだけど、
まぁそういうことと、さらに心理描写を書く・省くとか、
情景場面に照応を入れるとか入れないとか、
時間進行に工夫して緩急を効かせるとか、
材料をフラグメント化して書く順番を変えちゃうとか、
細かいことを組み合わせると、
いまだに新しい小説の型が、どんどん生まれているのだろう。
たとえば削った削った短い文章だと、
ドライでハードボイルドな文体になるとは言われてきたようだが、
そういう短い文章でも、川上弘美はまったく違った味のオモロイ文体を書いたりする。
小説はとどのつまりが言葉のデータベースだというオモロイ表現をしたのは、
清水義範だったが、
その言葉の組み合わせ方によって、いろんな型が生まれてくるというのは、
少し不思議な感じがする。
オイラはデータベースを実際に趣味もかねていじくっているのだが、
その世界は、どうも小説のように奥行きが深いわけじゃない。
(データマイニングとか考えるととたんに奥は深くなるけど、今はおいといて)
なので、やっぱり不思議な感じがする。
それと、ある程度基本の型をいうのを習得できないと、
その先の組み手で応用なんて、とても無理なんだろう。
北方謙三は、指定された文字数をキッチリと使い切って書くといっていた。
信じられないことに、推敲をしないともいっていた。
不思議だ。
小説というものを考えれば考えるほど、
オモロクってハマっていくのだった。
オイラは当分、崩れた阿波踊りをしていくしか、ないようなんだけど。
し、島次郎さん、お久しぶりです。
というわけで、オイラは今、書いているのです。
隣で飲んでいるのは、本当に書籍になったものを書いたことのある
カッパ先生(森さんといいます)なのですよ。
なんとかして、村上春樹でも成せなかった、
浅田次郎の右フックをものにしたいと
思っているのです♪