一人称で書いてあった。
初読のときは内容がオモロかったので、気にしなかったのだ。
己が今、一人称小説で格闘しているところなので、
再読してみると参考になる点が多々あった。
まず、作文を小説っぽくする初歩的な方法。
清水良典はこう言った。
「風景描写がない小説なんて、会話ばっかりになっちゃうでしょう」
ほんの一行、そういうことを入れるだけで様変わりすると思う。
風景描写について、オモロイことを研究した人がいる。
山本正秀という研究者が明治二、三十年の小説における叙景比率を調べた。
二葉亭四迷の「浮雲」1%、「春の鳥」10%、「河霧」16%、
「鹿狩」「少年の悲哀」「渚」25%、「忘れえぬ人々」32%。
この配分比率について、いろいろな考察を書かれているのが以下の書籍。
★「日本小説技術史」
渡部直己著 新潮社 3,400円+税 2012.9.30.発行
第四章 「自然」を見る・嗅ぐ・触る作家達 ~独歩・藤村・花袋・泡鳴
この渡部直己は早稲田なのだが、
同じ早稲田の村上春樹「1Q84」を別章にてえらく貶しており、不思議とそれは微笑ましい。
月がふたつあることに、渡部はなぜかお冠なのだった。
かつてこのことは連作記事にした。
書くのも読むのも評論するのも、
深くしようと思えば、どこまでも深くなりそうなのだった。
どーしてこうも、オモロイのだろうか。
PS:話は元に戻るが、
麻雀シーンでスウアンコウとコクシムソウを続けて上がったのは、
旅館の女将ではなく、色川武大に原作ではなっていた。
なんでこのような細かいところまで、ドラマは変更したのだろうか?