これこそが、レイモンド・チャンドラーの見いだした文学上の偉業だと、
「ロング・グッドバイ」の解説で村上春樹はいう。
自我を描ききってしまうと、
それによって事態が拘束してしまい、小説が破綻することがあるようだ。
なので、この自我というものを仮説のブラックボックスに入れてしまえば、
理論上はどのようなストーリーも格段に描きやすくなるという。
このスタイルはミステリーのみならず、
純文学の世界にも大きな影響を与えたはずだと彼はいう。
そして今日においても、その影響は及んでおり色あせていないのだと。
そういえば、この間の日経新聞の書籍宣伝で、
第90回だったと思うが、芥川賞作家が新作の構成について、
関連したことを語っていた。
主人公の心理描写を省きに省いて、最後の局面でそれをオープンにしてみたと。
なるほど、レイモンド・チャンドラーの影響は、現代にも及んでいるようだ。
心理描写を徹底的に削ぎ落とすと、いわゆる「非情系」の文学になりやすいらしい。
それが「ハード・ボイルド」って奴なんだろう。
北方謙三が書籍で「削って、削って」と、語っている部分にきっと通じているのだろう。
アーネスト・ヘミングウェイが、この先鞭をつけた作家らしい。
心理を直接描写せずに、行動に表して間接的に心理描写をしたのだという。
「武器よさらば」に出てくる場面だそうだ。
それをまた一歩進めたのが、ダシール・ハメットなのだと。
心理描写を省くことが可能ならば、自我の存在そのものも省けると。
だがこれは、ちょいと危なっかしいシロモノらしい。
そんな風に解説されると、
それがいったいどんなモノなんだか知りたくなるので、
読まないわけにはいかなくなってしまうんだって、まったく。。