定期購読している『週刊ダイヤモンド』(5/14号,特集「震災に強い街」)をめくっていると,東日本大震災で被害の有無を大きく分けた要因に「頑ななまでの防災へのこだわり,強い意識」を指摘する文脈で,次のような文章がある。
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明治三陸津波〔1896〕後,同地区〔岩手県大船渡市綾里白浜地区〕のように40超の集落が高所移転した。だが追跡調査で海抜15m以上,海岸まで距離400m以上に移住した人びとの大半が,ほぼ10年後には再び海岸へと戻っていた。
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隣接地区は甚大な被害を被る一方,上記白浜地区58世帯は,被害皆無。
「再び海岸へと戻って」行った人は,頑なに高台に居残る人たちを内心せせら笑っていたかも知れない,「いつまであんな不便な所に居続けるのか」。
なお奥尻島には大規模な縄文時代の遺跡があり,それは島の高台に位置しており,縄文人は多少の不便を我慢しても生活の場と生業の場を分けていた,という主旨の一文を,考古学者の森浩一が先般朝日新聞に寄せていた。
さて私が上記引用中もっとも興味深いのは,「人びとの大半」が海岸に戻ったという事実である。
世の全てとまでは言わないが,世のマジョリティがやっていることにろくでもないことは数多ある,というのがかねてよりの持論である。例えばTV番組,あるいは当事者は疑うことを知らないサラリーマン文化・学校文化,田舎の車・都会のエスカレーターなど,数え上げれば切りが無い。
奥尻島の縄文人,三陸の明治人,北海道南西沖地震後寄せられた義援金で家をまたぞろ海岸近くに建て直したという奥尻島の一部の平成人,誰が一番賢いのだろうか?