インフレ懸念とインフレ期待

著者:矢口 新
投稿:2014/09/16 11:17

インフレ懸念とインフレ期待、皆さんに馴染みがある表現は、どちらだろうか?

私が相場を始めた頃は、インフレは懸念するもので、インフレ期待という表現は聞いたことがなかった。インフレは、通貨の価値を下げ、実質収益、実質所得を押し下げる。資産を持たない人、持っていてもその価値の上昇がインフレ上昇率に及ばないものは実質的に損をする。また、債券のディーラーとしても、インフレは債券価格下落に繋がる「懸念すべきもの」だった。しかし、デフレ環境が続くにつれ、インフレは待ち望むものとされ、いつの間にかインフレ期待が市民権を得た。

通貨や通貨同等のものしか持たない人にとって、インフレは懸念となる。一方、資産を持つものにとって、どんな資産を持つかによってインフレは期待したくなるものとなる。

・良いインフレと悪いインフレ

11日、黒田日銀総裁は昨年4月に導入した「量的・質的金融緩和」の継続により、日銀が掲げる2%の物価安定目標の達成に全力を尽くす考えだと述べた。

私は2年前、2012年9月3日付けで、以下のようにコメントした。

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パートの所定内給与が6月まで9カ月連続で前年同月を上回った。これを受けて、「企業が商品価格に転嫁し、モノの値段が上がれば困る」というコメントが聞かれた。

一方で、日本経済が低迷しているのはデフレが原因だということで、政府、日銀はモノの値段を上げるためにインフレ率の目標を1%と定めた。自民党は2%を掲げるという。デフレとはモノの値段が下がること。モノの値段が下がって景気が低迷したのだから、モノの値段を上げることを政策目標とした。

では、モノを値段を下げているスーパー、衣料メーカーや牛丼チェーンなどは、日本の景気を悪くしている元凶なのだろうか?

我々の実感とすれば、セールやアウトレットに出掛けるように、モノの値段は安い方が有難い。10数年も個人所得が伸び悩んでいるなかで、デフレでなければ生活が維持できない人も多い。政府、日銀の政策とは、一般国民の生活実感とはズレのあるものなのだろうか?

政府は消費税率の引き上げを決めたが、企業がモノの値段に消費税をそのまま上乗せすると、我々の購入価格は上昇する。売上げ減を恐れて、消費増税分を企業努力で吸収すると、企業収益を圧迫する。増税分全部を吸収することはないと思われるので、一部をモノの値段に上乗せすると、それだけで政府、日銀のインフレ目標は達成できるかもしれないが、これが経済成長にプラスだと考える人はいないだろう。つまり、これは我々の生活を苦しくさせるだけの悪いインフレだ。

一方、消費税率が引き上げられることで、住宅市場には早くも駆け込み需要が見られるという。こういった駆け込み需要は目先的には経済成長にプラスだが、需要の先食いに過ぎないとも言えるので、将来の反動需要減と増税後の落ち込みとを鑑みれば、中長期的にはマイナス効果だ。とはいえ展開次第では、プラスにもなれば、更に大きなマイナスにもなる。

プラス効果になる場合は、需要の先食いであっても、その経済効果が様々な産業に波及し、相乗効果が持続する場合だ。雇用が拡大し、個人所得が増えれば、本物の需要が喚起されてくる。

マイナス効果になる場合は、需要の先食いを本物だと誤解し、過剰な設備投資や在庫投資に走る場合だ。需要の先食いによる将来の需要減、増税による需要減に、過大な設備や在庫による供給能力過多が加わると、マイナス効果の程度が時間的にも量的にも深まることになる。米の住宅バブル時にもその傾向がみられ、住宅需要はバブル崩壊から5年後の今も回復には至っていない。それでも過剰在庫の方は、今年に入ってようやく解消されつつある。

政府・日銀がモノの値段を上げればデフレ・スパイラルから脱却し、景気が回復すると考えているのなら、実質的なモノの値段を下げるエコ・ポイントや優遇税制を景気回復の手段とすることは辻褄が合わない。経済のファンダメンタルズを反映する「需給」を無視したモノの値段の調整は、長続きしないものだ。相場操縦が一時的な値幅取りに過ぎない行為なのと同じように。

エコ・ポイントや優遇税制が景気浮揚に効果があることでも分かるように、モノの値段は安い方が実質購買力が高まることになる。モノの値段を上げることが目的のインフレ目標は無用の長物だ。諸外国の金融政策を見る限り、モノの値段が上がるインフレは経済成長を阻害するものと理解されている。

経済成長はモノの値段の上昇につながる。景気回復を背景に人材不足となり、賃金が上昇してモノの値段が上げ始める。所得増を伴うモノの値段の上昇は自然な流れで、良いインフレだといえる。それでもインフレが行き過ぎると景気が失速するので、持続的な成長を維持するために、諸外国では状況に応じて金融引き締めが行われてきたのだ。

米国で民主、共和両党の大統領候補がともに雇用拡大を叫び、連銀議長も雇用問題を最優先課題として扱っているように、安定雇用、個人所得増が経済立て直しの最優先課題であるべきだ。景気が回復すれば、インフレ率など押さえるのに苦労するほど上げてくるものだ。日本の経済政策は、どうもボタンを掛け違えているように思えてならない。
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・消費税率引き上げ後の景気後退

先週9日発表の、8月の消費者態度指数は前月比0.3ポイント低下と、増税後初の悪化だった。内閣府は消費者心理の基調判断を「持ち直している」から「持ち直しのテンポが緩やかになっている」に下方修正した。

10日朝のテレビ東京のモーニングサテライトでは、解説者が消費税率引き上げ後の消費動向を、収入別に5つのカテゴリーに分類していた。消費減となったのは、下位20%以下と、20~40%で、中位40~60%は微増、上位20~40%の消費増が最も高く、上位20%以上も増加した。解説者は、企業収益増、雇用市場の回復で、下位40%以下の消費もV字、U字回復するのではないかと述べていた。

私もそう期待するが、税率が10%にまで引き上げられると、望み薄と言わざるを得ない。

10日付けのニューヨーク・タイムズも、4~6月期のGDPが落ち込んだ点を踏まえ、来年10月に予定される消費税率10%への再引き上げを「延期すべきだ」とする社説を掲載した。財政赤字削減の必要性は理解する一方で、好転しかけた日本経済への悪影響をより懸念した。

私が収入別5つのカテゴリーで感じたのは、消費増税は、引き上げ前に指摘されていた通り、やはり弱者に厳しかったということだ。これは考えるまでもなく、カツカツの生活をしている人への値上げ攻勢は、生活の質の低下を意味するのだ。その分、女性や高齢者が働けば良いという言い分も分かるが、そういったいわば余剰労働力を持たない家計には、生活の危機が訪れる。増税による可処分所得の減少は、国民の約半数の消費減、景気後退の原因となっているのだ。

上位20~40%の消費増が最も高いのも理解できる。この層が賃上げや株高の恩恵を最も受けていると思われるからだ。上位20%以上となると、欲しいものはいつでも買える層なので、外部環境の変化を受け難い。

関連:ランチ代、平均520円=消費増税が響く? ―第一生命
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140911-00000101-jij-bus_all

・通貨安が望ましいのは公然の「秘密」

9月4日、デフレ対策と称して、欧州中銀は利下げと、部分的な量的緩和を発表した。先週になって、何人かの理事が、利下げの主目的は通貨安誘導だと公表した。通貨安誘導は為替操作として、通貨戦争にも例えられる行為だ。これまでの金融緩和はデフレ対策や景気対策などとされ、通貨安誘導という表現は意識的に避けられてきた。

通貨安が望ましいのは公然の秘密だ。公然の「秘密」にする必要があるのは、1つの通貨安は他の通貨高となり、他国の望ましくない事態に直結するからだ。すべての国が通貨安となることはできないので、より有利な通貨レートをめぐっての通貨戦争が起きてしまう。

通貨安はモノの値段の上昇につながる。インフレだ。自国通貨安は輸入物価の上昇につながる。そのことで、円安の悪影響を語る人が増えてきた。増えてきたというより、円高不況と言われた時ですら、円高の恩恵を強調する人は常にいた。円高とは、外貨安、主にドル安なので、円高を称える理由は公然の「秘密」だったのだ。

輸入物価の上昇は、燃料費など国内に代替投資がないものには悪いインフレとなる。しかし、それまで安い輸入品が国内産を圧迫し、産業の危機となっていたものには復活のチャンスとなる。経済危機、通貨危機に陥った国々は、通貨の価値が3分の1、4分の1になることで、輸入物価は3倍、4倍に跳ね上がったが、国内産業の復活、輸出急増で生き返ってきたのだ。通貨安によるインフレは、必ずしも悪いものではない。

黒田総裁も「円安、マイナスと思わず」と発言したが、私は黒田日銀による量的緩和の一番大きな成果は、円安の「一因」となったことだと評価している。一方で、黒田総裁が支持している消費増税、その結果の部分によるインフレは、国内産業の復活や輸出増が見込めず、経済的には最悪だと見ている。ここで円高になったなら、日本は目も当てられない。

もっとも、何事もバランスで、だからこそ金融政策は、調節、調整などという表現を好む。現状の円安、あるいは150円くらいまでの円安は、日本経済におおいにプラスかと思う。

・景気見通しに悲観的な日本人

米ピュー・リサーチ・センター、経済見通しに関する最新調査で、「日本では向こう12カ月間の経済見通しが急速に悪化し、景気改善を予想する割合が1年前の40%から15%に急低下した」ことが分かった。調査対象44カ国のうち日本が最も将来に楽観的でないことが示された。

中国人は対照的に、80%が将来を楽観している。先進国では米国が最も楽観的で、景気が改善すると見込む割合は45%に上った。
参照:日本人は暗い将来像、楽観的見方は44カ国で最低
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052970203714004580145393759266422?mod=WSJJP_hpp_RIGHTTopStoriesThird

世界の多くの国々で、増税と金融緩和が併せて行われている。日本も消費増税と異次元緩和が継続中だ。吸い上げて、放出するのなら、結果は同じだろうか?

消費増税は全国民が対象だ。一方で、緩和や財政政策、公共投資などの恩恵は一律ではない。その結果の一例が、上記の「収入別5つのカテゴリー分類」に見られるのだ。

私はプロの資金運用者として、世界で進行中の矛盾や不合理を発見し、それを収益に換える訓練を受けてきた。矛盾や不合理に怒りを覚えないといえば嘘になるが、ルールを変えるために政治家になろうとも、政治家に圧力をかけようとも思わない。自分に明らかにできることがあるのに、できないことで苦悩したくないのだ。自分という限りのあるリソースを有効に活用するには、ルールの是非には目を瞑って、ルールのなかでどうすればいいのかを考え、行動するのが最善だと考えている。

大きな政府による資金の吸い上げに抵抗するのは、他の誰かにお願いしたい。私は私で、世界で進行中の矛盾や不合理を発見し、それを収益に換えること。つまり、金融緩和の恩恵を、一市民としてどのように享受するかを提案し続けている。先週発表されたNISAの浸透度を見ても、私の力など無きに等しいが、それでも、少しでも多くの人々にとって、インフレ政策が懸念だけではなく、期待ともなるように、対応の仕方を提案していきたい。

配信元: みんかぶ株式コラム