堅実さんのブログ

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アカシアの雨がやむとき  3年4月14日(水)21時48分

時は1960年。日米安全保障条約の反対運動。国会議事堂の上を、シコルスキー型の軽ヘリコプターが飛ぶ。このヘリコプターは2人乗りで、私が4歳とか5歳の頃、低空をゆっくりと飛行しているのを、何度もよく見た。周りが透明なので、運転席に、座っているのが、よく見えた。

ユーチューブです。

https://www.youtube.com/watch?v=ttyL7DcfcJM 


  時の総理、岸信介の、記者会見。岸総理は、この騒乱の責任をとって、辞任した。今、画面を見て、この時の反対運動は、凄まじかった。


日本全国で、「安保、反対」のデモ行進が、行われた。通っている小学校の、女の先生も、前橋市のデモに参加した。3か月くらいだったろうか。日本全国で、何度も「安保反対」のデモ行進が行なわれた。


太平洋戦争の、悲惨な状況から、年月が浅いので、もう戦争は反対だという国民感情の強い時だった。


国電が止まった、都営の電車が止まった。病院の休業が、相次いだ。


 首相官邸前の騒動、官邸からの放水。議事堂前の広場の、集団。この頃は、柵がなく、誰でも、気軽に議事堂の広場に、入れた。この後、議事堂の周りに、柵を張り巡らしたのだ。


 この時は、新左翼と呼ばれる、中核派、核丸派といった政治団体は、存在しない。自然と盛り上がった国民感情だった。そんなことで、このデモ行進を非難する人は、いなかった。僅かであった。右翼団体くらいか。


 新左翼は、ベトナム戦争が、始まった辺りから、誕生した。それが下火になったのは、赤軍派による、内部の兵士を次第に殺しているのが、分かる辺りから、新左翼は怖いという印象で、国民からも、支持を失ってゆく。


西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」はこの頃、大ヒットした歌だ。この頃は、未だ、テレビが普及していない時代。小学校にテレビが1台あった程度。幻灯機で、映像を見たくらいだ。


12件のコメントがあります
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    堅実さん
    2021/4/14 22:35
    堅実です。

    この、映像を始めて見る人は、疑うでしょうね。しかし、こんなことが、過去、あったのです。

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    風車の弥吉さん
    2021/4/14 22:54
    こんこん。

    安田講堂の攻防戦、懐かしいですね。

    一日中テレビにかじりついてみていました。

    当時の学生さん達のエネルギー源は凄かったですね。

    それに比べて今の学生さん達は、確かなイデオロギーに基づいて行動し

    ているんでしょうか。  
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    yoc1234さん
    2021/4/15 08:35
    おはようございます。

    国会議事堂の前の攻防。

    何でも反対という人々。

    何で反対するんだと、聞いても答えられない人。

    日本人は米軍によって、教育されちゃった。

    魂まで乗っ取られた。


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    堅実さん
    2021/4/15 11:16
    風車の弥吉  さんへ

    「安田講堂の攻防戦、懐かしいですね。」

    これは、時代が異なります。安田講堂の攻防は、1969年です。
    これは、1960年です。安田講堂より、9年前の出来事です。

    「一日中テレビにかじりついてみていました。
    当時の学生さん達のエネルギー源は凄かったですね。
    それに比べて今の学生さん達は、確かなイデオロギーに基づいて行動し
    ているんでしょうか。  」

    1969年の、安田講堂の視聴率は、88パーセントくらいで、ほとんどの人がテレビを見て、おりました。
    1960年は、まだ、テレビが、普及しておりませんでした。我が家にもありませんでした。

    1969年の、イデオロギーですが、これはもう、雑多です。ノンポリ学生も多数、おりました。ブント、ベトナム平和連合、社青同、全共闘など、入り乱れておりました。最初は、全共闘だけだったのですが、そこから、分派したのです。

    イデオロギーですが、私から見ると、確かな、イデオロギーは、ほんの僅かでした。マルクスの本、レーニンの「国家と革命」などは、よく読まれておりました。

    この1960年の安保闘争の特徴は、学生が全く、いないことです。
    すべて、仕事を持っている、社会人が、日米安全保障条約に、反対した事件と言えるものです。ここが、学生が全くいないことが、異なります。
    1945年に、日本が、アメリカとの戦争に、負けて、15年後ですから、もう、戦争はこりごりだという、社会の意識が強かった時です。




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    堅実さん
    2021/4/15 11:25
    yoc1234  さんへ

    「国会議事堂の前の攻防。
    何でも反対という人々。
    何で反対するんだと、聞いても答えられない人。」

    これは、戦争はもうやりたくない、日米安保は戦争につながるという、考えからの、デモと集会だったのです。

    「日本人は米軍によって、教育されちゃった。
    魂まで乗っ取られた。」

    これなんですけれど、戦後、アメリカの教育がかなり、影響しております。
    私の、小学校の社会科の教科書では「あたらしい、しゃかい」という本の名前で、わざわざ、あたらしいを、しゃかいの前に加えたのです。
    今でも、アメリカの思想の影響が、大きいのでは。
    しかし、日米安全保障条約があるために、今の尖閣問題など、中国はうかつに進出出来ないと考えます。この条約は、あってよかったと、考えます。
    私は、中国の他国を無視した、世界への進出には、反対です。
    日米安保は、堅持すべきです。


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    堅実さん
    2021/4/15 11:35
    堅実です

    少し、間違っている箇所があります。

    それは、
    「この1960年の安保闘争の特徴は、学生が全く、いないことです。
    すべて、仕事を持っている、社会人が、日米安全保障条約に、反対した事件と言えるものです。ここが、学生が全くいないことが、異なります。」

    ここが、間違っております。学生もデモに加わりましたが、デモの中心は、仕事を持っている、社会人だと、認識しております。
    日教祖などの、学校の先生が、かなり、デモに参加していることも、特徴です。



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    こんにちは。
    この頃は九州のやくざの抗争を介入していた時期です。
    炭鉱とやくざの街と言うレッテルで昭和の九州戦争と言うのは
    当時の九州の治安を知っている方は有名でした。
    そして様々な運動がありましたが、私はPKFの学びを受けてました。

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    堅実さん
    2021/4/15 21:26
    ISAY企画  さんへ

    「この頃は九州のやくざの抗争を介入していた時期です。」

    そうですか。今でも、九州のやくざの抗争は、すごいですね。



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    小督さん
    2021/4/15 21:28
    こんばんは

    「アカシアの雨がやむとき」
    初めて聴きました 

    西田佐知子さんは関口宏さんの奥様だそうですね

    私はこの時代と「連合赤軍」と三嶋由紀夫事件も同じ時代だと思っていましたが、
    10年後でした
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    堅実さん
    2021/4/15 21:49
    小督  さんへ

    「私はこの時代と「連合赤軍」と三嶋由紀夫事件も同じ時代だと思っていましたが、10年後でした

    そうなんです。たいてい、間違えますね。このブログでも、間違えてますね。
    1960年の安保反対闘争は、社会人と学生の闘争です。
    国鉄労働組合、日教組、などが中心。それと、学生です。
    1969年の学園紛争は、学生だけです。この違いがあります。


    連合赤軍事件は、群馬県が中心でした。榛名山のアジトが中心です。

    群馬県では、この年に、大久保清の、8人の女性を殺害した事件もありました。
    慶応の通信教育で、東京で1か月の生活の間、群馬県の女性は、腰が軽いと悪口を言われました。決して、そんな事はなかったのですが。

    当時、赤軍派というと、中核や核丸派も、恐れたそうです。連続殺人事件が起こる前からなので、その頃から、相当、内部の規律が厳しかったのでしょう。
    これも、群馬県の若い女性が、兵士として動き、最後には、反革命的ということで、厳冬の榛名山で、袋に詰められ、凍死する事件がありました。とても、気の毒でした。ささいな動機から、命を奪われる事件だったのです。

    実は、私も、この頃、東京で、爆破事件があり、たまたま群馬の家にいた時でしたので、容疑者として、疑われました。家には、駐在所から電話があり、慶応大学の事務からは、呼び出され、職場まで、警察官が来て、私の机などを、捜索したそうです。残されたヘルメットに、職場に近い、電話番号らしきものが、残っていたからです。








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    kouboudaisiさん
    2021/4/16 17:59
    >新左翼は、ベトナム戦争が、始まった辺りから、誕生した。
    私はベトナム戦争が終わった、昭和50年に横浜市の公立大学に入学
    しました。私のいた学校がそうなのかもしれませんが、いたって皆が
    ノンポリでした。せいぜい民青の学生がいる程度でした。
    アルバイトとスナック通いに一生懸命になっていた、どうにもならない
    大学生でした。
    ところで、アルプスアルパイン、アースインフィニティ―、京急電鉄、
    タスキ辺りを狙っているのですがどんなものでしょうか?


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    堅実さん
    2021/4/17 19:12
    kouboudaisi  さんへ

    「私はベトナム戦争が終わった、昭和50年に横浜市の公立大学に入学
    しました。私のいた学校がそうなのかもしれませんが、いたって皆が
    ノンポリでした。せいぜい民青の学生がいる程度でした。」

    民主青年同盟(日本共産党の、学生を中心とした学生)ですね。
    なつかしいですね。この民主青年同盟は、日本共産党の指示で、「暴力学生反対」といっていました。
    記憶が、よみがえりますが、中核と核丸は、元は、京浜安保共闘だったですね。それが、分派したのです。
    ブントですが、これは、意外ときちんとした、団体で、解散しておりますが、代表がNHKの、10時からの番組に出ておりました。20年くらい前ですか。

    「アルバイトとスナック通いに一生懸命になっていた、どうにもならない大学生でした。 」

    これは、わかります。大学は、レジャーランドと、言われておりました。
    ひとつは、学費を稼ぐために、アルバイトをしなければ、ならない事情が、あった。もう一つは、周りが授業の出てないので、そうなってしまったのでしょう。
    通信で、慶応の日吉キャンパスで、びっくりしました。学生数に比べ、机が全然足りないのです。これで、はっと、理解できました。

    「アルプスアルパイン、アースインフィニティ―、京急電鉄、
    タスキ辺りを狙っているのですがどんなものでしょうか? 」

    これですが、堅実のブログは、信用第一にしております。調べてない、あるいは、分からないものは、答えられません。それだけの、体力の余力が無いのです。

    長期投資では、保有銘柄を、出しております。この銘柄を常に、業績、株価を見ておりますので、これで、手一杯です。常に、調べているのです。









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