どっちころんでもよし。
( ̄∇ ̄;)ハッハッハ
武田信玄が風林火山の旗を用いたのは、北畠氏が中国の兵法書の六韜(りくとう)を掲げていたのに対抗する為と言われることが多い。
軍学者の兵頭二十八は、「当時の戦国武将の間では、兵法書といえば越前朝倉氏などが講義を受けていた『六韜』『三略』以外は知られていなかった。そこで信玄は、自分たちは孫子を知っているということを誇示し、敵を恐れさせるために孫子の旗を作ったのだろう」[2]と述べているが、これも憶測の域を出ていない。
なお、インターネット上[要出典][3]では、大阪阿部野神社蔵の伝・北畠顕家の旗に、「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という文言があるといい、信玄は北畠顕家の旗を元に「孫子の旗」を作ったという説がある。
風林火山の原文の出典は『孫子の兵法・軍争篇』の一節、風林火山の後にも続きがあり、全文は以下である。
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆[1]、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動。」
ー故に、
其疾如風:其の疾(はや)きこと風の如く、
其徐如林:其の徐(しず)かなること林の如く、
侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く、
不動如山:動かざること山の如し、
難知如陰:知り難きこと陰の如く、
動如雷霆:動くこと雷霆(らいてい)の如し、
掠郷分衆:郷を掠(かす)めて衆を分かち、
廓地分利:地を廓(ひろ)めて利を分かち、
懸權而動:権を懸けて動く。
ー
「風林火山」は、いざ戦争となった場合の動きを示すための言葉であり、孫氏の教えの要は序文の「兵は詭道なり」であり、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の外交・調略を多く用いた方針を表している。
孫氏の兵法がヨーロッパに紹介されたのは、抄録が18世紀にナポレオン・ボナパルトが愛読したと言われ、20世紀に漢文→日本語→英語と全訳が翻訳された為、日本を介してヨーロッパに紹介された。