大人顔負けの子供で世間を見て足りない部分を
補足させ日本が成長する方向に意見してましたが、
私は昭和天皇から戦争問題など嘆かれ国策の企画を
相談されたりして皇室から距離を置き、日本の国の
成長などを意見して企画を出して電話企画を考案し
てましたが、私は昭和時代に命を狙われ事故に遭い
命を取り留めましたが、体を引きずりながら学校に
通う事でリハビリの代わりに通学してました。
街は炭鉱とやくざの街と言うレッテルを張られ、
抗争が日々にあり、私の母の企業は事故の裁判と
父の療養の代金に会社の利益は消えてました。
そして電話企画の案件は遅れ昭和53年頃までに
プッシュ式の電話に変わりませんでした。
そして事故の後遺症が収まり電話企画や作詞企画で
世界中の経済を潤し渡航先では学資教室を運営し、
各国に渡航して貿易になる品物はないかと調査を
したり。世界で起こる抗争など介入して、ドイツの
国が東西に分かれていた壁を撤去しドイツが一国の
国となる様に介入したり世界経済を潤す事で昭和の
戦争問題を同時に解決して、昭和天皇から任された
国作りを今までおこなって来たが私の給料が、まだ
出て無く、国会や宮内庁など資金の使い方が荒いが
私の企画などの代金は昭和60年当時に確認した時が
1京円を国庫に貯め、国土開発も進めていました。
私の労働対価は昭和天皇との約束では完全歩合で
良いのでと約束したのですがまだ労働対価を頂いて
いません。

