日経新聞令和3年1月3日(日)の春秋によると、1400年代。吉田兼好の『徒然草』(つれづれぐさ)には、大晦日は、お盆と同じく、先祖を供養する慣習があったという。それが、いつの間にか、大晦日に先祖をお迎えして供養することが、無くなってしまったという。
大晦日は、来るべき年明けに向けて、おめでたい風習になっている。しかし、初もうでで、お寺に行くのは、この風習の名残ではと、思う。
年末年始の休暇は、サラリーマンにとっては、長い休暇である。この時とばかり、非日常の生活をしている。離れ離れになった兄弟、家族が、生家に集まり、にぎやかに、宴会するのも、この時である。
そこで、私も、正月はどうしていたかと、思い出してみた。小学校、中学校、高校と思い出があるが、その中でも中学3年の正月である。
高校受験で、炬燵で、ひたすら勉強していた。その正月に、おじさんが来て、1000円のお年玉をもらった。そして、おじさんの子供は、同じ歳だったが、受験勉強はしていないと言っていた。
勉強というのは、嫌いだったが、これが一生続くとは、その時は想像していなかった。なぜなら、大人で勉強している人が、周囲にいなかったのである。大人になれば、勉強しなくてもよいと、思っていた。それがいつの間にか、一生、なんらかの勉強をすることになった。
この勉強で、日経新聞の「私の履歴書」では、これはもう12年以上、毎日読んでいるが、これはと思う人は、必ず大変な勉強に努力している。これだけは、分かった事である。
私の場合は、大学の通信教育で、23年と半年費やしている。卒業したからと言って、社会的な地位は。変わらなかったが、これが一つの財産になっている。
心の財産である。この学習したという思い出は、何か困ったことがあると、役立っている。あの時の苦労から見れば、今の苦労なんて、大した事はないと思える。
何か、一つやってみると、その人の人生観、価値観に、大きな影響と、支援をもたらすことが、わかる。これから先、老いぼれて、消えゆく身の上である。しかし、そこには、私には、他の人にはないものが、備わっていると、思える昨今である。
テレビのドラマでも、学習している人は、何か他とは、違ったものが、オーラのように出てくる。時間が、あれば勉強すべし。必ず何か得られる。