超意訳発句経より「諸行無常」

kouboudaisiさん
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諸行無常、すなわち世のすべてはすぐにうつろいゆく。
これも過ぎる、あれも過ぎ去る、それもまた過ぎ去る。
物質と心を司るすべてのエネルギーは、微細なレベルで観察するなら、
一瞬たりとも安定することはなく、崩壊しては新しく生成する。
これを猛烈なスピードで繰り返し、ぐらついている。
どこにもしがみつくことなどできはしない。
これを座禅瞑想により、
肚の底から衝撃とともに体感するなら、
君は苦しみから離れ、君の心は清まり安らぐだろう。

諸法無我、すべてのものは、自分のものではない。
これも、あれも、それも。
あらゆる心理現象も物理現象も、そのすべては自分のものではない。
この身体も、この感覚も、この記憶も、この好き嫌いも、
この意識も、この世界も、すべては自分のものではない。
これを座禅瞑想により、
肚の底から衝撃とともに体感するなら、
君は苦しみから離れ、君の心は清まり安らぐだろう。

一切苦行、すなわち、これも苦、あれも苦、それも苦。
物質と心を司るすべての衝撃エネルギーは、
ことごと苦しみでしかない。
楽しいと脳内錯覚させられていることすら実は苦しみなのなら、
あらゆるこだわりは意味がない。
これを座禅瞑想により、
肚の底から衝撃とともに体感するなら、
君は苦しみから離れ、君の心は清まり安らぐだろう。

*これを座禅瞑想により、肚の底から衝撃とともに体感するなら、←
何を言っているのでしょう!それが出来なくて困っているのです!



2件のコメントがあります
1~2件 / 全2件

>永平寺の、修行は、恐ろしいと、思っております。


私は千葉県内の天台宗の寺で3ヶ月余り修行をした事があります。

それ程恐ろしいものではありませんでした。只、座禅修行はありませんでした。朝昼晩の勤行の他は、ひたすら作務作業の明け暮れでした。

草取り、枝打ち、内外の清掃、仏器磨き、土木作業等に打ち込みました。住職による仏教教義講習は僅かばかりでした。何でも曹洞宗は黙照禅、臨済宗は看話禅と言われております。


  • 黙照禅は、何も求めずにただ坐禅をする
  • 看話禅は、公案(禅の問題)について考え抜き悟りを目指す
堅実さん

こんばんわ


今、私は、ユーチューブで、永平寺を見ております。

厳しい、修行で、大抵の人は、まず、出来ません。

顔を、洗うのに、桶一杯だけです。

これだけでも、私には、出来ません。

それは、花粉症と、不潔恐怖のためです。


永平寺の、修行は、恐ろしいと、思っております。



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