お茶会は、鎌倉時代、室町時代と、上流階級の遊びであり、教養として、また権力の象徴として、使われた。
庶民には、お茶を飲むほどの、生活の余裕はない。水を飲むか、白湯を飲む毎日である。
この権力、教養、また、ステータスシンボルとしての、お茶会は、信長でも、派手にやっていた。本能寺の変の前日、信長は高価な茶器で、お茶会をやっている。
信長の次の、秀吉になって、利休は秀吉に、大変、気に入られていた。
ある日、秀吉が、平らな大きな「水かめ」に、いっぱいの水をため、一枝の梅の枝を、いけてみろと言う。利休は、一本の梅の枝の花を全て、枝から手でもぎ取り、その梅の花を「水かめ」に、浮かべた。これを見て、秀吉は大いに喜んだ。
この頃から、利休は、派手な、茶道具を、粗末な茶器に、変えていった。そして、茶室も金閣寺に見られるような豪華な茶室から、畳2畳の、狭い空間へと,変えていった。
豪華なものから、粗末な、「わびしい、寂しい」の世界である。このわびさびの世界を味わい、明日をも知れぬ命なら、せめて、一度、会った人は、その時だけを、大切にして、お互いに、その空間を共用しようという、考え「一期一会」の大切さを、言ったという。