堅実さんのブログ
山岡鉄舟(2) 2年1月13日(月)15時26分
群馬県出身の、小栗上野介です。幕府の勘定奉行を務め、明治政府の基本方針を、この小栗が作ったことです。大隈重信は「なんだ、明治政府のやっていることは、全て、小栗の考えたことをやっているだけだ。」と言ったことからもわかります。
明治維新の言葉は、明治政府に都合のよい言葉です。ここで、考えるのは、歴史は、果たして事実なのかです。最近では、「桜を見る会」が、安部総理により封印されてしまったことです。
明治への基礎は、すでに、幕末には有ったのです。これは歴史を調べれば、日本人の学力、経済の発展、技術レベルの高度なことなどです。慶応大学の速水融教授は、明治の基礎は、既に江戸時代に、有ったと述べています。
それは
1 江戸時代の江戸の人口は100万人を超えていた。この100万人の人が生活するには、交通、流通、貨幣経済が、しっかりしていた。映画で高利貸しの悪徳業者が、出ることがあるが、貨幣経済、先物取引(米)、手形に類する取引がすでに、あった。米の先物取引は、現在で言えば、株式の信用取引である。
ここから出たのが、坂田五法と呼ばれる、本間宗久の罫線のグラフである。これは現在の株価にも使われている。
2 道路がそれなりに、広かった。海運、水路が支えていた。
3 庶民では、「読み、書き、算盤」の町の熟が沢山あり、明治の初めには、文字の読める人が半数いた。これが学力の高さが明治からの工業化を急速に出来たのである。
昭和40年代に、日本から東南アジアへの技術援助をしたが、これがうまくいかない。その原因は、東南アジアの人の学力が、日本の機械の操作や、簿記などの知識が乏しかったことが原因である。
4 100万人を支える、全国の流通網が、しっかりしていた。海運業や五街道と呼ばれる、道がそれなりにあった。
5 江戸だけではなくて、全国の藩でも同様に、貨幣経済が、発達しており、学力レベルは、世界のトップクラスであった。江戸時代は、暗黒の時代だったのではない。
余談ですが、江戸では、大八車で、荷物を運搬するのに、道路がかなり混雑していた。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるが、道路のあちこちで、何しろ、急いで荷物を運ぶものだから、交通事故などのトラブルがあったと聞いている。
江戸っ子は気が短いと言われるが、仕事で急いでいるので、長話などする余裕が、無かったと思われる。
こんなことから、明治維新では無く、薩長のクーデターというのが適当です。
明治になり、早稲田大学を創設した、大隈重信は、こう言っている「何だ、明治政府のやったことは、既に、小栗上野介が始めたことを、真似しているだけじゃないか。」大きな人材を明治政府は、失ったものだ。
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