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知床旅情 加藤登紀子  元年8月18日(日)21時04分

知床旅情 加藤登紀子

この人の声を聴くと、心が落ち着く。昭和46年頃、北海道ブームで、えび族、かに族と言われた若者が、立に長いリユック、横に長いリユックを背負い、北海道で、野宿をして、安い費用の旅行を楽しんだ。テントを張らなくてもよい、駅の待合室が、夜、ごったがえしたという。

(クリックすると出ます)


https://www.youtube.com/watch?v=yEQAzMFHvk8 


 高度経済成長の後半で、この頃から、日米経済に、貿易摩擦がでる。今の米中の貿易摩擦と同じである。昭和46年は、ニクソンショックがあり、1ドル360円の、固定相場制から、現在の変動相場制に移行した年でもある。


この頃は、ベトナム戦争で、アメリカ軍と北ベトナムの、共産軍が戦っていた。反戦歌( 「花はどこにいった」とか、「ドナドナ」 )がよく歌われた。


またフオークソングの全盛期でもあった。吉田拓郎が、よくコンサートをした。「人生が2度あれば」、とか「東へ西へ」とかが、記憶にある。


アメリカでは、ヒッピー(現実の生活を逃避した、ドロップアウトした若者)が出現した。「ワシントン広場の夜はふけて」も、ヒッピーと関連するのだろう。この北海道ブームも、このヒッピーとは、関係があると思う。


また、学園紛争が後半に入った時でもあり、中核派、核マル派などの、新左翼と言われた共産主義運動が生まれた。赤軍派の群馬県の榛名山、軽井沢の別荘占拠事件は有名である。社会が騒然としていた。


ウーマンリブとか言われ、女性解放運動もあった。ボーボワール女史の「第2の性」がよく、読まれた。慶応の先生が、ボーボワールが慶応で講演をしたときに、あまりの迫力で、聴衆が圧倒されたと言っていた。


また、これに反対するような、人生、スモール、スモールの風潮もあり、「赤ちょうちん」とか、「学生時代の喫茶店」「妹よ」なども歌われた。


今の時代を見ると、みん株でもそうだが、私事の、コジンマリしたブログが目立つ。これも時代だと思う。成熟した社会で、安全に生きる方法であるが、どこか、物足りない。せめて、一日に漢字を一字でも、憶えたらと思うが、まずこの気持ちが通じない。



4件のコメントがあります
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    今晩は、堅実さん。

    何時も読ませて頂いています。

    堅実さんは、色々と博学と感じています。

    >みん株でもそうだが、私事の、コジンマリしたブログが目立つ。

    私のブログもその通りと思うので
    赤面しています。
    ただ・・・少しでも書くことで、頭の回転になるかと思って
    書いています

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    kouboudaisiさん
    2019/8/19 00:46
    こんばんは!お久しぶりです。
    森繁久彌作曲、歌加藤登紀子「知床旅情」は確かに随分と流行りましたね~!
    高校1年生の時、音楽の時間に「早春賦」を習い愕然とした思いでした。森繫久彌の盗作だったとは!
    私の当時の思い出だと、小柳ルミ子「私の城下町」です。
    後は何と言っても、昭和54年に3カ月程ヒットチャート1位だった
    久保田早紀「異邦人」です。私が学卒新入社員の時やたら流行り、喫茶店でも、パチンコ屋でも、ショッピングセンターでも、車の中のラジオ
    からも流れおりました。スッカリ前頭葉に刷り込まれ歌詞カードを見なくても歌えます。
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    堅実さん
    2019/8/19 14:35
    kouboudaisi   さんへ

    「森繁久彌作曲、歌加藤登紀子「知床旅情」は確かに随分と流行りましたね~!」

    昔の思い出です。加藤登紀子で「百万本のバラ」で登場させなくて、「琵琶湖周航の歌」とこの「知床旅情」で、補いました。

    私の当時の思い出だと、小柳ルミ子「私の城下町」です。

    これも、随分、歌われましたね。

    後は何と言っても、昭和54年に3カ月程ヒットチャート1位だった
    久保田早紀「異邦人」です。私が学卒新入社員の時やたら流行り、喫茶店でも、パチンコ屋でも、ショッピングセンターでも、車の中のラジオからも流れおりました。スッカリ前頭葉に刷り込まれ歌詞カードを見なくても歌えます。

    この頃、私は、精神に、障害をおこし、毎日が、異常な感覚で生きておりました。慢性膵炎と重なり、生きたここちがしなかったです。


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    堅実さん
    2019/8/19 14:57

    アイビーあずさ  さんへ


    「堅実さんは、色々と博学と感じています。」

    そんな事はないです。
    ただ、昭和46年から、49年にかけて、慶応大学の通信教育で、夢中になって、学習した記憶があります。
    通信教育は、7月と8月の40日間、神奈川県の日吉校舎と、港区の校舎で、通学しました。通信の規定からです。通信教育では1年間通学しなければならないという、文部省の規定があります。
    通学の学生が、夏休みになると、通信の学生が学習するのです。
    アカデミックなことが、聞けるので楽しみでした。それと、これが大学の授業かと感じたものでした。その後23年と半年で、卒業させて、もらいました。ボーボワールの話は、中小企業論の伊藤先生から、聞いたことです。

    日吉校舎の地下は、旧日本海軍の司令部だったことを、先生から聞き、その入り口は校庭のどこそこに有ると、聞きました。
    日吉のプールでは、4,5回泳いだ思いでがあります。
    体育の授業では、バトミントンで、通学生の女子学生に教えてもらい、親しくなりましたが、それきりでした。けっこう、美人だったので、今思うと、残念です。


    「みん株でもそうだが、私事の、コジンマリしたブログが目立つ。
    私のブログもその通りと思うので
    赤面しています。
    ただ・・・少しでも書くことで、頭の回転になるかと思って
    書いています 」

    どうも、パソコンの互換性が悪くて、文字が薄くなってしまいましたが、
    アイビーあずささんの、ブログは結構、私の知らないことが、書いてあるので、楽しく、読ませて頂いております。

    何かを、書くことは、心の整理になると思います。考えてみますと、私もブログを書くことにより、今までの、生きてきたことを、まとめて、整理していることだと、思います。

    今後とも、よろしく、お願い、いたします。





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