kouboudaisiさんのブログ

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ブッタは仏教徒だったか?

ブッタは仏教徒だったか。キリストはキリスト教徒だったか。マルクスはマルキストだったか。誰でも知っている通りそんな筈はありません!
「人が来世についていだく希望や目的は、欲望にもとづい生じる。」と、
釈尊は輪廻思想を否定しております。ところが、隋・唐を通して日本に伝えらた仏教は六道輪廻をスッカリ日本に定着させてしまいました。
比叡山延暦寺の横川の天台僧・恵心僧都源信が書いた「往生要集」以降この六道輪廻が庶民の間にも定着してしまったのです。
「それ往生極楽の教行けうぎやうは、濁世じよくせ末代の目足もくそくなり。道俗貴賤、、誰たれか帰せざる者あらん。ただし顕密けんみつの教法は、その文、一にあらず。事理じり業因ごふいん、その行これ多し。利智りち精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯ぐわんろの者、あに敢てせんや。」と巻頭に記述があります。
そもそも輪廻思想は、一つには「人は際限なく生と死を繰り返す」という再生思想。もう一つは「来世での人生がどうなるかは、今の世の行いの善し悪しで決まる」という因果応報思想からなりたっています。
そうして輪廻思想は、「望ましい人生」の取得あるいは持続に賭ける人々の願いが生んだ根拠のない思い込み、大いなる幻想に他ならないと釈尊は出発点でしめしました。
それでは我々はどうしたらよいのか?欲望そのものを根絶やしにすればよい。そうすればこの世で自分がなした善行が後世にに効果を及ぼすかどうかなどは悩む必要は、輪廻の有無をめぐる疑心暗鬼もろとも消えて無くなる、と釈尊は提案したのです。
「聖者は修行につとめはげみ、この世についてもあの世についても何も望まない」とスッタニパータに記載されているのです。
更に「独座と瞑想を捨てることなく、サイの角のようにただ独り歩め。」、
「死も再生ももはやない者ーかれはなにを怖れよう?」とあります。
その修行が私などには出来るはずがないのです!
釈尊は3千数百年前にインド亜大陸を征服したアーリア人種のバラモン教の否定、異端者から始まりました。キリストも当時のユダヤ教の異端クムラン教団の更に異端者です。キリストが元々は当時のユダヤ教徒だったように、栄西、道元、法然、親鸞、日蓮等も元々は天台宗徒でした。
そんな訳で革命思想は常に異端者から発生するのです。
私も今まで何処の組織にいても異端者でしたが、多くの人に影響を与え導くことなどとても出来るはずなどありませんでした。
もっともそんな事を望んだことなどありませんでしたし、何時も変わり者と言われて終わりました。










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