(これは、前のブログ、Y君の女房から電話の続です。)
人は生きられればよいのである。「人は弱いものである。」これが生きてきたうちに出て来た結論である。森友問題で、近畿国税局職員の自殺など、本人も数年前までは、思ってもみないことだと思う。残された妻や子供の事を考えると、胸が痛む。
逆説的であるが、「人は弱いものである。だから生きられるのである。」こう考えたらどうか。なよなよしようが、生きることを重視すべきである。
先の近畿国税局職員では、「業務命令で公文書を書き換えた。自分は言われたとうりにやったので、責任は無い。」このように、考えられなかったのかと思う。この方が結果としてよかったのではと思う。それは残された、妻や子供のためでもある。
私も仕事の経験からある。かつて私は3度、職場で退職させられる危機にあったことがある。いじめとパワハラである。もうどうしてよいか分からない窮地にあっている。こんな経験から心のどこかにある、こうしなければ、社会の公平は、保たれないと思っている。
これは、あるいは、異常な心理状態かもしれない。しかし、私の心の隅にある、何かが動いている。それは「恨み」と「たたり」である。
私なら、そうなれば、こうする。「たたってやるのである。」夜、よな、こんな事をした人の、枕元に出てやる。そして「恨んでやる。」「恨んでやる。」と毎日、悪霊となり、亡霊となり出てやる。何しろ、これが元で死ななければならなかった。お前は、生きているではないか。だから、毎日、呪ってやる。そう、言い続けるのである。
相手がどうなるか。それは苦しめばよい。何しろ、お前が元で殺されたのだから。
そして、そうなれば、必ず悪霊となり、実行するであろう。妻や子供が、浮かばれない。だからその分、苦しまなければ、納得できない。こんな、生霊か、悪霊かわからないが、私の心の中には、経験から、こんな考えが、巣食っている。それが目を覚ましたのである。
また、お釈迦様は、そうなっても、相手の幸福を考えると言う。また、キリストでも、復讐は神に任せなさいという。また、「人を呪えば、穴二つ」ともいう。しかし、今も私には、とてもそういう気持ちにはなれない。ここの処の折り合いをどうするか。これが、実は、毎日の様に、出てきて悩んでいる。