☠チベットの死者の書を讀む第48日目
クロージング
【死の哲学概論】
死ねば、おはり。ハイ、それまでよ!
しかし、それならば、東日本大震災のあと、多数目撃された幽霊なんどは、だふ説明する?
しかし、それでも幾ら、なんでも哲学は、ボクには荷が重すぎる。
そこで「チベットの死者の書」をテキストに選んでみました。
『チベットの死者の書』は、正確には、
「中有(バルドー)に於ける聴聞による大いなる解脱」を意味し、
『チベットの死者の書』は、翻訳者エヴァンス・ベンツが、
「エジプトの死者の書」にちなんで、かつてに附けてしまった書名です。
かふ単純に理解してゐます。この書は、導師もしくは友が、死にゆく者、もしくは中有49日のバルドーに入った者に語って聞かせる死後の案内記・ロードマップです。
どっちかといふと、阿弥陀如来への他力信心型。瞑想修業をしたことのない人向き。
浄土真宗も絶對他力だから、おもな行法は、念仏と聞法(法の聴聞)です。
ラマ僧の場合、*ゾクチェンの瞑想なんどで、ポワ(転生)の修行ができるわけです。
[*そのゾクチェンの瞑想は、残念!ボクには説明できません。素養不足。]
そこは、ボクには全く縁のなひチベット佛教です。
そこでソギャル・リンポチェ師(亡命チベット人。ケンブリッジ大学卒。比較宗教学専攻)が英語で、西洋人向きに死者の書の解説をおこなった「チベットの生と死の書」を参照したといふか、もっぱら、こっちを讀みすすめました。
粗い感想としては、おそらく江戸時代。それいぜん室町・鎌倉仏教も、チベット佛教に近かったとおもいます。
死後の世界、六道輪廻、極楽浄土は、あたりまえ。
ボクの杜撰な推量として、明治新政府になってから、日本佛教は文明開化したのかなぁ。
ボクのウチの浄土真宗の場合、明治になって、禁書の「歎異抄」が公開されたので、明治の青年たちは、それに熱狂した。
ただ歎異抄は、だふ見ても生者の書だ。
また今の真宗の葬式では、そりゃぁ導師様は、確かにお経はあげるけど、それがわかる死者はすくなひはず。やっぱり今の日本語で説法すべきだと思います。
そして言わなければならなひのは、死んだはずなのに、意識のある死者のことだ。もはや、肉体から離れているので、話せなひけど、聞くことは、できるのですよ。
死の哲学どころか、ポワ(転生)の全く知識のなひ死者は、困ってしまふだらふ。(FXをしながら附けてるブログです。いたらぬところは、おゆるしください。)
第48日目 おはり