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伊能忠敬 高橋至時に師事

歴史ミステリー 伊能忠敬 驚異の日本地図


高橋至時に師事[編集]

伊能忠敬住居跡。
弟子入り[編集]
寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家をかまえた[80]。
ちょうどその頃、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)につくられた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かった[81][82]。そこで幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ[83]。しかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした[83][82]。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した[84]。
忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。改暦の動きは秘密裏に行われていたのであるが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。その情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。そのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説である[85]。

同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気付いた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている[86]。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業の中で入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している[85]。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している


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