人々は、私(釈迦)がこの世で初めて仏になったと思っているが、そうではない。私が仏になったのは、百千万億載という気が遠くなりそうな計り知れない昔のことだ。そして、そのはるか昔から今日にいたるまで、私は教えを説いて大勢の人々を教化し仏の道に導いてきた。
私はただ人々を救い、導くために、方便として入滅の姿を示しただけであって、実際に入滅したことは一度たりともない。常にこの世について教えを説き続けているのだ。ただし、私がこの世にいると言っても人々からは私の姿は見えない。なぜならもろもろの神通力を用いて、人々の傍にいながらその姿が 見えないようにしているからだ。
しかし人々は私が本当に入滅したと思って、各地で舎利を供養し信心の心を起こす。その心はとても素直で柔軟である。私に会いたいという一心で、命さえも惜しまないと思っている。彼らが本当の信仰心を起こし、仏に帰依する心をもったなら、私たちは弟子たちとともに霊鷲山に姿を現すのである。
私はその時人々に語るであろう。「私は常にここにいて入滅することはない。しかし人々を導くための方便として、ときに入滅の姿を示す。」そして他の国の人々で仏を恭しく敬い、信じて願うものがいるならば、私はその国に行って、人々のために教えを説くであろう。
それなのに、あなたがたは、ただ私が入滅したのもと思い込んでいる。
私から見れば人々は皆、苦海に沈んでいる。だからこそ私はわざと姿を見せないでいて、人々に仏を思う気持ちを起こさせ渇望させる。仏を恋い慕う気持ちになったとき姿を現し、教えを説くのである。
私は神通力をもって姿を隠し、計り知れない長い間私は霊鷲山や、その他もろもろの場所にとどまっている。世界が破棄され、地獄から人間界天上界までが炎に焼かれたようなときでも、私のいるこの世界は安らかで、仏と人々で満ちている。
私のいる霊鷲山の庭園や建物は、いろいろな宝物で飾られている、宝樹には美しい花が咲き、果実がたわわに実り、人々が楽しく過ごす場所となっている。諸天は天の鼓を打ち、いつもさまさまな音楽を奏でており、曼陀羅華の花が舞い、それが仏をはじめ多くの人々にも振りかかる。
このように仏の浄土は安泰であるににもかかわらず、迷える人々は、浄土の世界は破壊され、焼き尽くされ、憂いや恐怖・苦悩に満ちていると思っているのである。罪人たちはその悪業因縁によって、どんなに計り知れない長い時間が過ぎても、三宝の名さえ聞くことができない。
ところがこれに対して、善行を積み、もろもろの功徳を修め、柔和で素直な心を持つ人々は、ここが仏の教え聞くことができる素晴らしい場所であることを知っている。私がこの場所にいて教えを説くことが分かるのである。
だから私は、あるときは、これらの人々のために仏の寿命が永遠であることを説き、長い時間ををかけて初めて私に会うことができた人には、仏にはなかなか会い難いもであることを説こう。
私の知恵はこのように自在で限りないものだ。知恵の光は限りなく、寿命は無限である。これは長い間の修行の積み重ねによって得たおかげである。あなたがた知恵のある者は、このことを疑ってはならない。私の言葉はすべて真実で、けっして嘘偽りでないからである。それはまるで良医である父が、心を病んだ子供を治療し目覚めさせるために、自分が生きているのに死んだと嘘をついたとしても、それを咎める人がいないのと同じである。
私もまた、世の人々の父として、人々の苦しみを救う者だ。凡夫はその煩悩のゆえ、私が生きているのに入滅したと思い込んでいる。また、いつでも私がいると思うと、人々はいい気になって、五欲(色・声・香・味・触)にとらわれ、悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に陥ってしまう。
私は常に、正しい仏道を修行する人と、そうでないは人を見きわめている。そして、それぞれの人に応じて導き(対機説法)、救うために最善の教えを説くのである。私は常に自ら、この念を新たにしている。「どのようにして人々を無上道に導き、速やかに成仏させるにはどうすればよいのか」とー。