現在を未来にくくりつけるかたちで、わたしたちの行為はなされる。
目標を立て、そのためにいましめなければならないことを考える。
行為はたぶん、そのようになされる、
というかなされるとおもっている。
さらにまた、過去・現在・未来を一つの意味でつなぐところに、
「わたし」というものが成り立つと思っている。
過去に自分のしたことに責任をとり、
未来にじぶんの希望を投げかける、
そのなかに「わたし」はあるとおもっている。
だから逆に、がんばったところで空しいと未来をあらかじめ断念しているときには、
「何もかも見えちゃっている」などと履き捨てもする。
しかし、「見えちゃっている」というこの言葉、
じつはすごく不遜である。
何歳で学校を卒業し、
何歳で結婚し、
何歳で係長になり、
さらには定年後はこういう生活をする・・・・・・。
たしかに凡庸で、
「夢」の持ちようがないことである。
が、ここには勘定に入っていないものがある。
偶然である。
事故に遭う、病気になる、
会社がつぶれる、子どもを先に亡くす・・・・・・
といった計算外のことに思い及んでいないのだ。
どういう事態に遭遇するか、
どんな人と出会うかという、
自分では予想もコントロールもできない
〈偶然〉への想像力を欠いている。
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★「素手のふるまい」
鷲田誠意著 朝日新聞出版 2016.7.30.第1刷
ちょっと、ちょっと。
そんなこと指摘されちゃったら、
オイラの立場ってないじゃないの。
オイラ自身、何度も死んじゃおっかなって思ってたんだし、
警官の拳銃奪って自分の頭に向けて引き金引こうとしたことだってある。
ちゃんと、ロック外してさ。
そこまでしたんだから、
もう後はたいしたことなんだろうって思っていたら、
吐くしかないような偶然って、その後もたくさん押し寄せてきたよ。
鷲田って、すんごい哲学者だな。
中原中也のことを論じた文章を読んで以来、感じていたのだけれども、
やっぱりホンモノの哲学親父だ。