堅実さんのブログ
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神に祈る 28年8月27日(土)15時03分
ここでの神とは、キリスト教でもなく、日本古来からの、神でもない。漫然とした、この宇宙にある、「エネルギー」とか「根本」である。
高校のクラス会で、分かったが、1割が亡くなっている。それと、行方不明を合わせると、2割である。この行方不明には、亡くなっている人もかなりいると思う。やく2割が死んでいる。
ここまで、何とか生きたかと思う気持ちと、やはり、どうにもならないもの、能力を超えたものを感じる。仕事に就いて、そこでの人と出会い。価値の違い、組織内の派閥、勢力争い、いじめ、エゴイズムなどを体験した。これは、人には、人を選べないし、どうにもならない一つである。
そして、結婚、家族となり、思うようにならない事も経験した。さらに、健康となると、注意はしていても、癌などは、何時、発病するか予想できない。どうにも、ならない事が幾つもある。これが人である。そこで、その人なりに。生活を改善、工夫することは重要だが、これだけでは、物足りないので、心の奥で、何かにお願いする気持ちが出て来る。
そして、お願いと同時に、自ら、出来ることをやってゆかなければ、生きられないと思う。祈りと実践である。
新聞の書籍の宣伝で、修道院の本があった。切り取ってある。そこでは、日本の仏教の修行とかなり、近いことが行われている。修道者は、個室を与えられ、祈りと学習と、自炊の生活である。テレビ、ラジオは無い。携帯電話も個人では使えない。気晴らしと運動のために、散策時間がある。この時には、話してもよいらしい。丁度これは、永平寺の掃除の時だけは、大声を上げてもよいという修行に似ている。
人の欲望には、際限がない。そこを感じとって、このような修行となったのだろう。東も西も同じかなと思う。
筆者も、考える処があり、もう、体力の限界で、あれもだめ、これもだめとなっている。
最近は、新聞の読み過ぎで、かなり目が疲れた。更に老化が進んでいる。パソコンだけではない。
夏は暑くて運動も、しずらいが、工夫する価値はある。
欲望を抑えて、社会の雑音は、少なくして、運動と、自分に合った生活をする。これが、個性というものかと思うが、祈りの生活が、多くなるのかと、思う。しかし祈りと言っても、何だかわからない。今まで生きてきた経験を、自問自答することかとも思う。丁度、一人で歩いている時に。
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堅実さん。
いつも真摯な、ご考察ありがたく御礼申し上げます。
大體に於いて、宗教は、
①神霊主義。キリスト教やイスラムのような絶対神(唯一神)の信仰。さらに一神教と多神教があります。他力型。
②神秘主義。佛教やヒンズー。禅やヨーガ。おのれのうちに、神性(佛性)を求めるタイプ。自力型。
③シャーマニズム。人格神というより、自然神への帰依。
この三つが渦を巻いているように、思ゑます。
③シャーマニズムなら、鹿児島県なら、縣本土に、修験道(山伏)があり、奄美大島(琉球弧)には、易者(ユタ、占い師)または咒術者(ノロ、呪術師)、たいてい女性がおられます。そこにはそれ、深く広い精神世界、世界観があります。
神=GODは、哲学者西周の明確な、誤訳ではないでしょうか。中國では、「天守」と訳されていますけど。GODは、創造主の意味が強く、また唯一神ですので、エホバ神やアラーは、他の宗教(神)には、いたって残酷です。
ここから先、個人的には、自分は、神仏、高級靈(低位靈も)、自然靈も存在すると思います。汎神論であります。ただ人には、滅多に言わないし、何々宗だとは言わないし、あらゆる宗教的団体とは、全く無関係です。
「神は、個人を愛し、集団は、愛さない」エックハルト。
「秘密にせよ」新約聖書。 拝
ほんまそうかい さんへ
一読して、世界の宗教への、知識が深いと思いました。
筆者の神は、頭の中で、幼い頃から、考えている、例えば「便所」の神様とか「かまど」の神様みたいな、ものです。「のんのさん」みたいなものです。
それが、この世界全体、宇宙まで広がったら、こうなるであろうという、「意志」みたなものです。
ここで、生きるということから考えますと、確かに、知識は、沢山有ったほうが、よいのですが、例えば、「今、死にゆく自分」を考えてみますと、その神仏の知識は、役に立つかというと、筆者には、どうでもよいことになりそうです。
相変わらず、生きたい、生きたいの自分です。
これから先は、答えの出ない、更に、未知の領域です。人はその外で、疎外されて、孤独、これを絶対の孤独とでも、いうのでしょうか。
一人だけ、この世界から切り離された、孤独を感じます。これが本当の孤独なのでしょう。
だから、人は誰かと、繋がっていたい。それが、多くの人が書く、みん株のブログにも出ていると思います。
答えが、出ません。無力です。
19時09分