高校のクラス会で、分かったが、1割が亡くなっている。それと、行方不明を合わせると、2割である。この行方不明には、亡くなっている人もかなりいると思う。やく2割が死んでいる。
ここまで、何とか生きたかと思う気持ちと、やはり、どうにもならないもの、能力を超えたものを感じる。仕事に就いて、そこでの人と出会い。価値の違い、組織内の派閥、勢力争い、いじめ、エゴイズムなどを体験した。これは、人には、人を選べないし、どうにもならない一つである。
そして、結婚、家族となり、思うようにならない事も経験した。さらに、健康となると、注意はしていても、癌などは、何時、発病するか予想できない。どうにも、ならない事が幾つもある。これが人である。そこで、その人なりに。生活を改善、工夫することは重要だが、これだけでは、物足りないので、心の奥で、何かにお願いする気持ちが出て来る。
そして、お願いと同時に、自ら、出来ることをやってゆかなければ、生きられないと思う。祈りと実践である。
新聞の書籍の宣伝で、修道院の本があった。切り取ってある。そこでは、日本の仏教の修行とかなり、近いことが行われている。修道者は、個室を与えられ、祈りと学習と、自炊の生活である。テレビ、ラジオは無い。携帯電話も個人では使えない。気晴らしと運動のために、散策時間がある。この時には、話してもよいらしい。丁度これは、永平寺の掃除の時だけは、大声を上げてもよいという修行に似ている。
人の欲望には、際限がない。そこを感じとって、このような修行となったのだろう。東も西も同じかなと思う。
筆者も、考える処があり、もう、体力の限界で、あれもだめ、これもだめとなっている。
最近は、新聞の読み過ぎで、かなり目が疲れた。更に老化が進んでいる。パソコンだけではない。
夏は暑くて運動も、しずらいが、工夫する価値はある。
欲望を抑えて、社会の雑音は、少なくして、運動と、自分に合った生活をする。これが、個性というものかと思うが、祈りの生活が、多くなるのかと、思う。しかし祈りと言っても、何だかわからない。今まで生きてきた経験を、自問自答することかとも思う。丁度、一人で歩いている時に。