小督さんのブログ
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「明智光秀の塚」と「光秀饅頭」 (京都市東山区)
晴明の桔梗つながりと5月に山崎に行った縁?で、光秀の塚に足を伸ばしてみました。
先客の男性は数珠を持って、熱心に拝んでいました
明智光秀の塚
天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、
すぐ後の、山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に破れ、
近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖(おぐりす)の竹薮で農民に襲われて自刃、
最期を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、
夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。
京都市
その男性は私に気付くと、場を譲ろうとしましたが、
私は案内板の写真を撮らせてもらいました。
しばらくして、別の団体もやってきて、
「昨日、『世界不思議発見!』でやっていましたね。」と話されると、
その男性の御先祖様は、明智光秀の家系にあたるとのことでした
少しの時間ですが、貴重なお話を聞かせていただきました
【写真:左】
左の石碑に刻まれている「長存寺殿明窓玄智大禅定門」は光秀の戒名との事。
祠には光秀の木造と位牌が祀られており、
右の五重の塔が光秀の首塚と言われているそうです。
【写真:中央】
明智光秀の塚を代々守っておられる「餅虎」さんの「光秀饅頭」。
黒糖(つぶあん)と抹茶(京風白みそあん)。
いずれも、濃厚なお味でした
なお、明智家の家紋とされる「水色桔梗(みずいろききょう)」は、
明智家の流れを組む土岐家の紋だそうです。
土岐家発祥の地「土岐(とき)」は、桔梗の古語「岡ととき」の咲く場所であることに由来、
土岐家は桔梗を家紋にしたとのことです。
家紋自体に色がついた紋は当時では珍しいみたいですね
先客の男性は数珠を持って、熱心に拝んでいました
明智光秀の塚
天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、
すぐ後の、山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に破れ、
近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖(おぐりす)の竹薮で農民に襲われて自刃、
最期を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、
夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。
京都市
その男性は私に気付くと、場を譲ろうとしましたが、
私は案内板の写真を撮らせてもらいました。
しばらくして、別の団体もやってきて、
「昨日、『世界不思議発見!』でやっていましたね。」と話されると、
その男性の御先祖様は、明智光秀の家系にあたるとのことでした
少しの時間ですが、貴重なお話を聞かせていただきました
【写真:左】
左の石碑に刻まれている「長存寺殿明窓玄智大禅定門」は光秀の戒名との事。
祠には光秀の木造と位牌が祀られており、
右の五重の塔が光秀の首塚と言われているそうです。
【写真:中央】
明智光秀の塚を代々守っておられる「餅虎」さんの「光秀饅頭」。
黒糖(つぶあん)と抹茶(京風白みそあん)。
いずれも、濃厚なお味でした
なお、明智家の家紋とされる「水色桔梗(みずいろききょう)」は、
明智家の流れを組む土岐家の紋だそうです。
土岐家発祥の地「土岐(とき)」は、桔梗の古語「岡ととき」の咲く場所であることに由来、
土岐家は桔梗を家紋にしたとのことです。
家紋自体に色がついた紋は当時では珍しいみたいですね
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