東西両軍20万の大軍が、死力を尽くして戦った戦国時代最大の大合戦、関ケ原の役。
午前9時に始まったこの戦いは、正午になっても両軍互角の激戦が続き、1万5000の大軍を擁しながら、未だにどちらにつくか決めかねている小早川秀秋の決断が、すべてを決めることになるのはだれの目にも明らかでした。
本来、秀秋は西軍だったのですが、東軍徳川家康からも裏切るように誘われていて、去就を決めかねていたのです。
秀秋が迷いに迷った末決断したのは 「東軍につく、直ちに西軍、大谷隊を攻撃せよ」 でした。 早速、使いの者たちが各小隊長たちにその命令を伝えに行きます。
封建社会において主君の命令は絶対です。 ところが1人だけ、「 その命令は受けかねる 」 と言ってきた隊長がいました。 それが今回の主人公、松野主馬正重元です。
その理由は「 縦裏の反逆は侍のせぬもの 」 というものでした。
確かに松野主馬は小早川家の家臣ですが、その小早川は豊臣秀吉の家臣であるわけで、一旦、豊臣方の西軍に加わっておきながら、土壇場になって裏切るというのは、どうしても納得がいかなかったというわけです。
とはいうものの、それでは困るので秀秋は再度、使いの者を立てて主馬を説得しようとします。
「早々に西軍にかかられい」 という軍使に対して主馬は猛反発します。
「 ここで西軍を裏切ったとなれば、秀頼公(豊臣秀吉の息子)に対する忠義は何とされるおつもりか。 他の隊長のことは知らない。 たとえ皆が縦裏の反逆をしようと、私は東軍と戦って討ち死にする 」
興奮して言うことを聞きそうにない主馬に対して、軍使は粘り強く説得を続けます。
「 秀秋様の内応は今に始まったことではない。 されば今、西軍に矛先を向けたとて何の不都合のあろうや。 それをあえて、東軍に討ちかかるという貴様こそ、不忠不義、縦裏の反逆ではないか 」
口では軍使にかなわない松野主馬。で、結局どうしたか。彼の出した決断は・・
東軍も西軍もどちらも攻めず。 というものでした。 松野主馬は自身の手勢を引き連れて前線を離れ、高みの見物をしていたそうです。
さて、関ヶ原戦役が終了したのち、松野主馬のこの行動は、諸侯から高い評価を受けました。
現代においてもそうですが、戦国時代というものは、たとえ大名であっても戦に負ければ乞食になるのが日常茶飯事の厳しい世界。
主君に使えるというのは、すなわち、「力のあるものについて出世しよう」ということで、それがごく当たり前の考え方だったのであります。
そんな中で、あえて 「武士道」 を主張して、 負けると分かっている方に手を貸そうとした 、そういう松野主馬の生き様は当時の人々の心を打ったようです。
「自分に正直に生きる」松野主馬のこうした考え方は、現代人の我々も見習うところが多いと思います。
松野主馬はその後、田中吉政に仕え、治水工事などに才を発揮。
福岡県北部にある松延村にある主馬殿川は、かつて、松野主馬が城番として、ここに詰めていたことにちなんでその名がついたのだそうです。
最終的には浪人暮らしとなって奥州白川の地で、関ケ原から55年後の1655年に大往生したそうですが、主の小早川秀秋が、戦後2年目に変死したのとは、あまりにも対照的な松野主馬の生涯でした。