天下分け目の関ヶ原戦役、西軍についた薩摩の島津義弘は悩んでおりました。 参戦したのはいいけれど、義弘自身は大坂に駐屯しているため、手元には300人の手勢しかいなかったからです。
義弘は国元へ援兵を要請しましたが、薩摩勢はなかなか集まりません。朝鮮の役などで出費がかさんで財政難だったためです。
一応、島津氏は薩摩57万石の大大名ではあるのですが、面積が広いだけで痩せた火山灰地が多く、実高は30万石程度でした。
そんな中、義弘の窮状を知って、無断で上方へ駆けつけたのが今回の主人公、中馬大蔵です。
中馬大蔵重方は大男で、「三州一の大力」と呼ばれるほどの怪力の持ち主。 主君島津義弘にとても気に入られていて、蟄居の身になった際も、ひそかに毎年米2表を与えられるほどでした。
さて、援兵の話を聞いたとき、大蔵は野良仕事をしていたのですが、陣ぶれの太鼓を耳にしたと同時に、田んぼのあぜに立ててあった槍をひっつかんで、そのまま家にも戻らず、上方を目指しました。
槍はもってるものの、甲冑はなくて百姓姿の野良着のまま。 さればと大蔵は、途中で鎧びつ(鎧を入れるリュックサックみたいな物) を背にした者を見かけるや否や、「すまん!」 と叫んでそれを強奪して、猛然と上方へ。
その後、義弘のもとへ無事はせ参じた大蔵のもとへ、その鎧を取られた武士が、イカって文句を言いに来ました。 しかし大蔵は全く動じず
「まあ、悪く思うな。戦だから仕方がない」
と、ケロッとして言いました。 義弘公も、わっはっはと大笑いして一件落着。
この中馬大蔵の最も有名な話は、関が原から島津軍が敵中突破を敢行して、逃げるときです。
大蔵は義弘の乗ったかごの後ろを担いでいたのですが、前を担いでいる者が義弘に馬肉を進めるのをみて、勝手にこれを取り上げて食ってしまいました。
大蔵いわく
「おどんが食べて殿を守る。いよいよのときには腹を切る殿が食う必要は無い」
それにたいして義弘は
「大蔵の言う通り。私は食べなくてよい」
と、答えたそうです。
おそらく大蔵は、義弘が食い物を独り占めにするような人間でないことを知っていたから、あえてそういう暴言めいたことを言ったのだと思います。 主従の信頼関係が垣間見える瞬間です。
のちに、この時の武勇伝を若い藩士に話して聞かせるとき、大蔵は思わず感極まって大泣きしたそうです。