黒田官兵衛の子、長政に仕えた後藤又兵衛基次(もとつぐ)は、豪勇をもって鳴る槍の名手。 大河ドラマ「真田丸」では哀川翔さんが演じられるそうです。
関ヶ原合戦の前哨戦「合渡川の戦い」の時、川を渡って対岸の西軍を攻撃するか、敵が渡ってくるのを待ち受けるか、評定が決しないことがありました。
そのとき軍議をしていた諸侯の一人藤堂高虎が、又兵衛の姿を見つけて、
「あれは噂の後藤又兵衛ではないか。戦上手の彼の意見を聞こうではないか」と言って招き寄せました。
すると相談された又兵衛曰く
「評定も結構であるが、それも時と場合によるもの。今ここで一戦しなければ内府公(徳川家康)に対して面目が立ちますまい。この川を討ち死にの場所と覚悟しなければ男子にあらず」
この言葉ひとつで一同「おお~」と感心して、諸将は川を渡って西軍部隊を攻撃したのでありました。
また関ヶ原の本戦においても又兵衛は、西軍石田三成隊の大橋掃部(かもん)という剛の者と一騎打ちを行って、見事これを討ち取ったそうです。戦後は小隈城1万6000石を与えられます。
だが運命は非情なもの。ここが彼の人生のピークでした。
その後の又兵衛は不運の連続。まず主君長政に謀反の疑いをかけられて長年仕えた黒田家を去ることになります。
細川家が5000石で召し抱えようとしましたが黒田長政が「引き渡せ」と難癖をつけたので、この話もあえなくチョン。
前述の藤堂家からも仕官の話があったのですが、再就職しようにも黒田家からの奉公構(大名からの召し抱えを禁ずる)があったため、結局浪人暮らしを余儀なくされてしまいました。
やがて流浪の中で豪傑としての死に場所を求めていた彼は、豊臣秀頼に招かれて大坂の陣に臨みます。
浪人とは言っても又兵衛は軍略を論じることができるので、真田幸村と並んで大坂方の大黒柱です。 しかし残念なことに実権を握っているのは秀頼の母淀君。 又兵衛たちの意見はことごとく却下され、勝つ見込みのない戦いで力戦することになります。
それでも大坂冬の陣は今福の戦いにおいて、上杉、佐竹軍と大激戦を演じて最後の勇名をとどろかせます。
最後の大阪夏の陣。形勢不利の中で機先を制そうと焦った又兵衛は、道明寺の戦いで伊達政宗の大軍に包囲されて8時間奮戦するも、鉄砲隊による射撃によって壮絶な戦死を遂げました。享年56歳。
ちなみに戦前、家康は又兵衛の大阪入りを恐れて、播磨一国をもって誘いましたが又兵衛は
「一刻も早く討ち死にすることで、徳川殿の厚志に報いよう」 と拒絶したそうです。