毎週日曜日は大河ドラマ「真田丸」の日。 私は毎回見ているのですが、それにちなんだ戦国武将紹介シリーズの3回目でごわす。
可児才蔵吉長は「首取り天狗」の異名も持つ槍の名人で、最初は前田利家に仕えて武功を挙げました。 天下分け目の関ヶ原戦役のときはすでに47歳となっていましたが、徳川家康率いる東軍の先鋒、福島正則の前衛隊長として奮戦し、17もの首を取ってその活躍、東軍随一と称えられました。
ちなみに福島正則には700石で召し抱えられたのですが、家来の竹内久右衛門という剛の者に半分の350石を与えたそうです。 さすが豪傑、気前がいいです。
戦後、福島正則が広島に封ぜられると才蔵もこれについていって、当地で余生を過ごすことになるのですが、こういうひとかどの人物は引退後もイロイロなエピソードを残します。
ある日、槍の試合を才蔵に申し込んだ人がいたのですが、当日約束の場所に出向いたその人は呆気にとられました。
なんと才蔵は、槍や鉄砲で完全武装させた手下どもを10人ばかり従えたうえで「いざ、存分に参られい」 とケロッと言ってのけたのです。
「いやいや、私がしたいのは1対1の決闘なのですよ」
慌てて断る相手に対して才蔵曰く
「私たちが戦場でする試合は常にこういうものです」
と言って相手にしなかったそうです。
また或る時、喧嘩の場に居合わせた才蔵が、喧嘩を止めずに知らん顔してその場を去ったことがありました。
それを見ていた知人が才蔵に注意しました。
「あんたほどの武芸者が喧嘩を止めないのはおかしいではないか」
それに対して才蔵曰く
「拙者には私の命はござらぬ」 と答えたそうです。
一見、冷たく感じるかもしれませんが、当時はまだ戦国時代。つまらぬ喧嘩に巻き込まれて怪我でもすれば、いざ合戦というときに役にたたなくなってしまいます。 戦場をねぐらとして生きてきた彼の生きざまは、終生変わることがありませんでした。
才蔵の死後、彼の菩提を弔うために建てられた広島市の才蔵寺は「合格祈願」の御利益があるそうで、今も学生の参拝が絶えないそうです。