若いころ、職場の読書家に「深夜特急」を借りた。
乗り物を極力使わないで、日本からアジア経由で欧州へと渡る
沢木耕太郎自身の実録ものだ。
あまりのオモロサに、文庫本3巻ノンストップで読み終えてしまった。
もう一度、今度はちゃんと買って読み返してみたら、
オイラにとっては、参考になる部分があるように思える。
また、「新宿鮫」と同じくらいのスピードでめくった作品だとはいえ、
「新宿鮫」との違いがなんなのか、少し深く確認するのも一興だろう。
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いつだったか、沢木耕太郎が新聞で意見を述べていた。
最近、日本の読み物全般に渡って主語がはっきりと書かれていないと。
それじゃーイカンじゃないかと。
(自分の文章に責任を持つべしという意味でだったと思うが、以下少し曲解してみる)
しかし、翻訳に詳しいベテラン(東大の英語の先生とか)の書籍を読むと、
「日本語は主語を沢山省く習慣がある」と書いてあるのを、
複数で見つけた。
それがゆえに、某超有名な在日米国人学者が、
とある日本語の小説を英語に翻訳したとき、
おおきな誤訳をしてしまった箇所があるという。
その原因は、日本語では当たり前な主語の省略した文章を、
その某超有名な在日米国人学者が、そうした日本語の習慣に慣れておらず、
うっかり読み誤ったためだという。
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また、柳田国男の民俗学的な文献を、もっと英語に翻訳すべきという主張に対して、
それは日本語を英語に翻訳するということがわかっていない素人の見解だと、
叱責する文章(柳田国男~民俗学の創始者:河出書房新社)を読んだことがある。
理由は、日本語と英語がかならずしも一対一でリレーションできないからだと。
村上春樹はこうした事情を平素からよく知っているので、
彼の小説にあまり難しい言葉は出てこないのではないだろうか。
しかも、それが彼の文体に魅力的な特色を醸しだしている一要因に思える。
彼のもうひとつの魅力である会話文が消失した場合にどーなるのかは、
会話文のあまりない「静かな小説」である「Novel 11, Book 18」を読むと、
感じるものがある。
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ところで、沢木耕太郎は現在、朝日新聞で小説を書いている。
時々読んでみると、会話のほとんどない文体で書いている。
「静かな小説」でよく見られる手法と認識するようになったが、
石川達三が「経験的小説論」で書いていたとおり、
なるほど、それは引き締まった文章に感じられる。
「文体とは人間の器官でいうと皮膚であり、文体によってその肌触りが大きく変わる」
と、石川達三は書いていた。