6年の修行中、最期に悪魔が出てきて、修行を止めたら、好きなものを与えると言ってくる。美女でも何でも好きなものを与えると言う。「魔女よ去れ。」そして悪魔との闘いの末、観音様が空から降りてくる。とても綺麗な人だった。筆者の小説「梅田トンネルの怪」の修子はこういう人ではなかったかと思う。
「鬼子母神」、「貧者の一灯」や「くもの糸」が出て来る。
この映画と「ベンハー」の映画が似ている。ベンハーに老人が「恨みでは救われない。神にお任せしなさい。」と言っている処である。この社会がある限り、「恨み」の感情は出て来る。しかし仏法もキリストも共通して恨みと仇討は禁止している。今の日本の法律でも、「仇打ち」は禁止されている。個人が裁くのではなく、法に沿って国家が裁くのである。
しかし、この人の持つ感情を、人がコントロールするのは難しい。これこそ、永遠の課題である。一番、難しいのは「欲」をどの辺で静止するかである。全て止めてしまえば、生物として生きることは出来ない。「学習により自己実現の向上をしたい」というのは、さして問題ではないが、人に認めてもらいたいとか、資産が欲しいとかは方法により問題となる。
自分の意志どうりに、社会を動かしたいとなるとこれは、考えるべきである。大阪の若者、あるいは中年男は、この方法で、傲慢さが強すぎたのではないか。変な方向に社会がなっては困る。また、何となく浮ついた社会風潮の感も強い。もう少し、一つ一つ整理して考えてはどうか。学習するとは、考え方の方法を学ぶことでもある。