堅実さんのブログ
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もう一人の自分 3月14日(土)21時01分
日常の生活で、挫けそうになる時がある。三日に一度くらいか。この歳になっても、小学生と同じ、中学生と同じ、青年と同じ、50歳と同じである。我ながら、大した事無い人物である。
この日記で、もう何度も、もう一人の自分を書いてきた。例えば、100円が道に落ちている。拾うと思う自分。それに対して、こうしたほうがいいよと思う自分の、二人である。スーパーで泥棒をしようと思う自分に対して、いや止めた方がいいよと考える自分である。このように感情の自分は存在するので、どうにも制御出来ない。それに対して、それを判断し、感情をコントロールする別の自分の存在である。このように自分を二人にしておき、別の自分を成長させれば、原始的な感情の自分をコントロール出来ないかである。
この別の自分を成長させれば、日常生活でより、高揚した自分を作り上げ、よりよい生き方が出来ないかである。今までの自分を考えてみれば、この自分を何とか、うまく使ってきたともいえる。例えば、学習にしろ、貯蓄にしろ、遊びたい、使いたい自分を抑えて、将来のことを考えたのである。結果として、社会的地位は、全く無かったが、学ぶ楽しさを味わえたし、株式の配当で年金の少なさを幾らかカバー出来ている。最近この二人の自分を更にコントロールする、三番目の自分の存在を考えたらどうかと思うようになった。
丸を書こう。そしてその丸を囲む大きな丸を書こう。最初の丸は感情の丸である。それを取り巻く丸は別の自分である。この別の自分が、感情の丸をコントロールしている。三番目は更に大きな丸で、二つの丸を、覆い囲む丸である。
この三番目の丸である。ここには弘法大師を、置こうか。あるいは宇宙の創始者を置こうか。
このように考えると、自分という存在は、決して一人では、無いことになる。考えてみれば、人は孤独な存在である。一人で生まれ、一人で死んでゆく存在である。ここには虚無が存在する。常に変化する無常の存在である。しかし、別の自分を置き、更に三番目の自分を置くと、自分は一人では無く、大きな力の存在に支配され、保護されていることになる。そして三番目の自分の存在を、意識すれば、その中で生きているという自覚と、保護を感じるのである。夢の中の、揺り籠のようでもある。
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