福田赳夫
1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を上回る議席を確保。同年夏、新たに党友組織自由国民会議創設に当たり党国民運動本部長中川一郎を通じて保守派の論客として知られる作曲家・黛敏郎に初代代表就任を要請し受諾を得る。またこの頃、国民栄誉賞を創設した。
同年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を飲み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと国際的な批判を浴びることとなった。この後北朝鮮による拉致が急増した。しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行う。その姿勢はアジア開発銀行の設立やフィリピンのマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。
1978年(昭和53年)10月23日、鄧小平副総理を日本に迎え、「日中平和友好条約」に調印。