一般宮中参賀と日本

ヒロろんさん

今年も1月2日に、皇居に8万1千人の善男善女が参賀に訪れて、万歳を唱えた。日の丸の小旗の波が、美しかった。

天皇陛下のお姿は、いつ拝しても神々しい。

世界に多くの国々があるが、日本だけが125代にわたる御皇室を戴いている。御皇室こそが、日本を日本たらしめている。

どうして、日本が開闢(かいびゃく)して以来、天皇がもっとも崇められるべき人である「すめらみこと」として、尊ばれてきたのだろうか?

神道は万物に神霊が宿っているとする、精霊信仰である。
 
世界の先進国の中で、日本においてだけ、精霊信仰がいだかれている。御皇室と神道は同じ源(みなもと)から、発している。

日本人は太古の昔から直感によって、万物に神霊が宿っていると、信じてきた。日本人は全宇宙が神聖だと、直感したのだった。

ところが、長いあいだにわたって、神道には名前がなかった。神道という言葉が日本語に加わったのはかなり最近のことで、日本の2番目に古い歴史書である『日本書紀』(西暦720年)の中に、はじめて現われる。

神道は日本が生まれた時から存在してきたが、仏教が伝来すると、仏教と区別するために、「神道」と名づけられた。

仏教とともに、日本に中国大陸から、論理的な考えかたが入ってきた。

神道は直感によっているから、知性を働かせる論理と、無縁である。そのために神道には、仏教や、大陸から伝わった儒教と違って、今日にいたるまで、教典が存在していない。

仏教と儒教は、日本が発展するに当たって、大きく役立ってきた。仏教と神道は争うことなく、互に学びあって混った。

中国やヨーロッパや中東では、論理が直感を圧倒するようになったのに、日本では神道が今日まで力をまったく失わなかった。

中国やヨーロッパや中東では、論理や、詭弁による争いが絶えることなく、論理を用いて組み立てられた善と悪を振りかざして、権力を争奪して、王朝が頻繁に交替した。

日本人は直感を大切にしてきたから、論理によって支配されることがなかった。日本では人が身勝手に決めることができる善悪ではなく、何が清らかで美しいか、何が穢(きたな)くて汚れているかという感性を、尺度としてきた。

日本では天照大御神が最高神だが、中国の天帝や、ユダヤ、キリスト、イスラム教の最高神と異って、宇宙を創造した万能で、絶対的な権力を握っている至高神ではない。

日本最古の歴史書である『古事記(ふることぶみ)』(西暦712年)によれば、神々によらずに、宇宙は自らの力で、自成して誕生した。

中国は、今日でも階級社会である。ヨーロッパにも、厳然とした社会的な差別がある。アメリカでは黒人に対する差別が行われて、大きな社会問題となっている。

それに対して、日本は平等な社会であってきた。神々も、地上に生きている人も、同じように「みこと」とされている。

新しい年が明けると、皇居において天皇陛下が主催される、歌会始(うたかいはじめ)が厳(おごそ)かに催される。

毎年、その前の年に御題が発表されて、全国から和歌が公募され、入選者は社会的地位や、職業の貴賤を問わずに皇居に招かれて、両陛下や御皇族の前で入選歌が披露(ひろう)される。

どの歌も、平和を願う祈りである。

歌会始の歴史は、古いものだ。中世の中国やヨーロッパでは、ありえないことである。

今年の御題は、「本」だった。
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