小説において意識を描く際に主要な技法が二つある。
一つは内的独白で、これは談話構造の文法的主語が「私」であり、
我々は、登場人物が自分の頭の中で生まれる意識をそのまま言葉にしているのを、
いわば脇で聞いている格好になる。
この技法は、次章で論じることにする。
もう一つの方法は自由間接文体といい、
文体自体の歴史は少なくともジェイン・オースチンにまで遡れるが、
ヴァージニア・ウルフのような現代作家の手によってはじめて本格的に、
そして技巧的に用いられるようになった。
これは思考内容を報告のような形で(三人称、過去形で)描写しながら、
語彙は思考の主体である登場人物に合ったものを用い、
「と彼女は思った」、「だろうと考えた」、「そう自問してみた」など、
より形式ばった語り方で必要となるような伝達節を省略する。
この手法は、読者にとって間近に読み取れそうな意識の描写を可能にするが、
作者の声を完全に拭い去りはしない。
「ダロウェイ婦人は自分で花を買いにいくと言った」という文がいきなり小説の冒頭に現れる。
これを語っているのは作者の声を持つ語り手だが、
それはダロウェイ婦人が誰なのか、
あるいはなぜ彼女が花を買いにいかねばらないかを説明してはくれない、
非人称的で得体の知れぬ語り手である。
刻々と変化している生活の真っただ中にこのようにいきなり読者を引きずり込む手法
(我々は描かれている断片を一つ一つ組み合わせ、
そこから類推してヒロインの生活を割り出すことになる)は、
意識を「流れ」として描く小説に典型的なものである。
(略)
**********************************************
★「小説の技巧」
デイヴィッド・ロッジ著 柴田元幸・斉藤兆史訳 白水社 2,400円+税
1997.6.15.第一刷 2010.8.10.第十九刷 「9意識の流れ」P.66~67より抜粋
丸谷才一が著作の中で語っていた「意識の流れ」とは何なのか、
ずっと気になっていたので、こういうことだったのかと少し納得した。
ただし、丸谷はジェイムズ・ジョイスのよる「意識の流れ」と書いていた。
デイヴィッド・ロッジも、この章の終わりで、ウルフよりジョイスの方に軍配が上がるとしている。
各章の冒頭には、著名作家による実際の作品が数多く抜粋されている。
この書籍の刷数がすでに十九刷ということで、
文学に興味のある人は、あらかた既に読んでいると思われる。
「知るとできるは違う」という諺があるくらいなので、
読んだからといって小説を書けるようになるとは限らない。
けれど知らずにいれば、
空手と一緒で、型の意味に不作為なために新しい戦法もひらめかないし、
実践にもおぼつかず思っていることを形にできない、ということになろう。
なので、どーしても読みたくなってくる。
PS:ラテンアメリカ作家の野谷文昭が、
かつて読売新聞で、「小説の話法と効果」について書いていた。
そこでは、「自由間接話法」という言葉を使っていた。
切り抜いておいて、よかった。