いや、おかしいとは考えていない。老人になれば、老人らしい考えがあっても、いいと思うが、幸太には何時まで経っても、老人の考えが無いのである。
困ったもんだ。困ったもんだと、思いながら、真冬になる。もう12月か。スーパーでは、クリスマス商戦で、クリスマスソングを流し、買ってくれ、買ってくれである。しかし、その中でも「諸人こぞりて」などは、心が安らぐ。
新聞にこんなことが、書いてあった。一つの細胞は、周りの細胞があるから、その働きが決まってくるという。もし、細胞の集まりが無く、細胞が一つなら、その細胞はどういう働きをするかである。ここに細胞を人に置き換える。すると、人は周囲の人の関係で、動きまわる。これが、自分はどう周囲に見られているのかという、自己存在観になる。これが絶対者、神との関係では、人は周囲からどう見られているのかより、神と個人の絶対関係になる。
この日本では、神との関係より、周囲の人との関係を重視する。だから、人との関係は、こうすればよいという「新書本」が次から次へと出て来る。それをいちいち、読んでいたら、それで人生が終わりで、生活していくという事が、欠けてしまう。そうすると、何のための、読書かということになる。読書だけで終わってしまう。それでよいのかである。
そして、クリスマスが終わると、除夜の鐘である。この音は、気持ちが安らぐ。煩悩を消して欲しい。しかし幸太には、大みそかの除夜の鐘だけでは、間に合わない。毎日、除夜の鐘が欲しいのである。こんなことを、考えていると、これでは、なんだいと思ってしまう。
このままでは、死ぬ間際になっても、何を一体考えているのかである。結局は、支離滅裂のことしか、思い浮かばないのだろう。そうやって終わりかと思う。