元祖SHINSHINさんのブログ
娘の指摘によって文章が変わった有名人
あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、
何だかちっともわからない文章だという。
読んでみると、なるほど悪文である。
こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、
わかりませんと書いておけばいいのだ、
と答えたら、娘は笑い出した。
だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、
といった。
へえ、そうかい、とあきれたが、
ちかごろ、家で、われながら小言幸兵衛じみてきたと思っている矢先、
おやじの面目まるつぶれである。
教育問題はむつかしい。
実は、同じ経験を、その後、何度もしたのである。
知人の子供から、同じことを聞いたこともあるし、
またある日、地方の新聞社から電話がかかり、
当地の学校の入学試験問題に、貴下の文章が出たが、
意味あいまいで、PTAの問題になっている、
作者の正確な答案を掲載したいからお答え願いたい、
と昔書いた自分の文章を、長々と電話口で聞かされた。
聞いているうちに、虫のいどころがだんだん悪くなってくる。
「正確な意味はね」「ハイ、ハイ」「読んで字のごとしだ」
ガチャリ。
そんなこともあった。
両方で、不快になるだけである。
(略)
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★「読書について」
小林秀雄著 中央公論新社 1,300円+税 2013.9.25.初版発行
「国語という大河」P.66~67より抜粋
晩年の小林秀雄の文章は「変わった」と、
人からよく言われたのだという。
きっと、抜粋したように娘さんからの指摘が大きかったと思われる。
彼の初期の頃の批評集を読んでみたが、
この娘さんと同じく、
「堅くって飲み込めないような文章だ」とずっと思っていた。
オイラの頭が・・・などと思って、自信をなくしたりもしていたけれど、
そうじゃなかったみたいで、よかった。
他の項で、美文といわれる文章の書き方が流行らなくなってきたと小林は書いているが、
そうさせたのは実は、小林秀雄の「堅くって飲み込めないような文章」
だったのかもしれない。
PTAでも紛糾したってくらいなんだから、その影響は小さくなかったろう。
それでも一方で、
文章が簡易になるのはイイが、
それで失われるものもあるから気を付けないといけないよと、
さすがに批評で馴らした強者は、見解を述べることを忘れない。
それから、批評というのは理論だけでは駄目で、
人の心に届くような要素も必要なのだとも書いている。
批評が上達するのには、
セオリーなどなく、ひたすら読んで感じるしかないとも書いている。
これを小説の置き換えると、
スティーブン・キングや赤川次郎、浅田次郎などと同じことを言っている。
小説を書くにあたっても、こうしたことは参考になると思われた。
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