(略)
今 奥さんだってあの坂を上り降りするのは大変だ。
それ以上に、何か注文したって、誰も届けてくれないだろう。
小林 それもあるが、あそこへ越した頃には、水道がなかったでしょう。
あんな高い所に井戸が三本ある。越してきて二、三日したら、井戸のモーターが盗まれた。
これには弱ったな。あの頃は泥棒がいっぱいいたからな。
モーターが皮切りで、何回やられたかね。住むには苦労な所だった。
今 本格的な泥棒も這入ったね、お宅には。
小林 本格的泥棒というのも変だがね、まあインテリと違って、泥棒には贋物はないな。
今 泥棒だけならまだいいんだが、小林の体の上に跨がったのもいたな。
小林 ああ、あれは泥棒じゃない。二人組の強盗だ。
短刀で頰っぺたを叩かれて目が醒めたんだ。
一番先の泥棒は学生さんでね。こいつは僕のところのレコードを全部持って行っちゃった。
三回ぐらいで持って行ったね。
書斎は鍵が掛かるでしょう。何にも知らないんだよ。
開いていた窓を閉めたら、上の回転窓から今度はやって来た。
回転窓は外から押せば開くという事を泥棒から教わった。
これでは何でも盗まれるよ。あの頃はレコードは貴重だった。
僕はその頃レコードに凝っていたから、随分持っていた。
今 それは出て来ないのか。
小林 みんな直ぐに売り飛ばすからな。それに調書なんて、面倒臭くて書けるものではない。
その男が私の山の下で挙動不審で捕まってね。
後で捕まえた巡査と話したがね。
逃げだしたから咄嗟に上着を脱ぎ捨てて追いかけて捕まえたんだが、
戻ってみると上着が誰かに盗まれていたんだ。
これには驚いたと彼は言っていたがね。
その泥棒が後になってお礼に来た。
今 泥棒のお礼とは? おかしいな。
小林 いや、減刑嘆願書っていうものを出したんでね。向こうで書いてくれっていうから。
弁護士が雇えなければ官選の弁護士がつく。その弁護士から頼まれたのさ。
こういう訳だから減刑嘆願書を出してくれという事でね。
そのお礼に来たんですよ。家内が出て、どなた様でございますかと言うと、
「こないだお宅に這入った泥棒でございます」。
今 そう言ったのか。
小林 そうなんだ。
働きたいというので、方々頼んでみたが、泥棒をなかなか雇ってくれる所はない。
そうそう菊岡(久利)君に頼んだがね。芝浦の仲仕さ。
結局、また金を借りられて逃げられてしまった。
次の強盗がさ、その時に手紙が来た。
「結婚して今では落ち着いています。今度は強盗が這入ったっていう事が
新聞に出ているのを見た。お懐かしい」っていう訳だな。確か、そう書いてあった。
今 美談には違いないがね。その強盗も捕まったな。
小林 捕まった。あの頃は警察も強かったし、強盗の方も、すれていなかったな。
呑気で、人がよかったな。
短刀で頰っぺたを叩かれた時には驚いたが、その短刀がぷるぷる震えているのだな。
こりゃ新米だ、あわてたら大変な事になると直ぐ考えたな。
この二人組だって、初めはテーブルの上に刀を突き立てて凄んでいたが、
金を出してだんだん話をしているうちに、帰る自分には、
こっちが煙草を銜えるとライターで火をつけてくれたからな。
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★「小林秀雄対談集 直観を磨くもの」
小林秀雄著 新潮文庫 710円+税 H26.1.1.発行 H26.1.25.二刷
「今日出海 交友対談」P.429~432より抜粋
黒澤映画「まあだだよ」では、
内田百閒が泥棒のために、家の中を案内する張り紙があちこちにしてあって、
笑いを誘っている場面があったが。
昔はセコムがないので、裕福な人は大変だったことがわかるオモロイ話だ。
他に、ケンカ太郎と異名のある大岡昇平との語りもオモロイ。
正宗白鳥や柳田國男との絡みなど、そーだったのかと、なかなか読ませる。
梅原龍三郎の段では、絵画世界の話がオモロイ。
有名画家の見方が、初心者にとっては斬新。
また、絵の具の使い方披露もイイ。
その次の永井龍男編で、絵画の話も継続されつつ、
職人とはなんぞやということで、大工が使うカンナの話でオチとなってる。
セザンヌは職人で、ピカソはパフォーマー。
なるほどと、強い説得力があった。