「行って来い」というのは、ここでは相場の話ではない。
表題にあるように、科白の話だ。
他には「聞いたか坊主」、「予告(前せつ)」などの禁じ手があるという。
今、オイラは密かに、某ベテラン・シナリオライターのブログを読んでいる。
「こういうことを知りたかった」という事柄の目白押しだ。
冒頭のような禁じ手をシナリオコンクールに書いてしまうと、
それはもう、大きな減点になるという。
シナリオは、小説とは違うとそのシナリオライターは言っている。
けれども、共通点が多いのは確かなので、
これを読まない手はないだろう。
途中まで読んでみた感触だと、
この先生の語るシナリオの書き方は、
小説家で言うと北方謙三的なのだと思う。
そう思いながら読んでいくと、
北方謙三が「削って、削って」と言っていたのは、
あながち冗談じゃなかったんだなぁ・・・と、恵心したりする。
けれども、小説の場合は他にもさまざまな書きようがあると思われるので、
現実の小説を読み込みながら研究を積んでいって、
このベテラン・シナリオライターの見解を、相互参照しながら取り込んでいこうと思う。
以下、先生のブログから引用する。
**********************************************
とにかく「行って来い」といい「予告」といい、リズムやテンポを毀すことこの上ない。
読む側の生理的な反応を考えたことがあるのだろうか。
私はあえて云う、シナリオはリズムであると。
120枚の作品であれば、ドーンと胸に応えるシーンが4ヶ所あって、
それぞれが15枚を要する心情的葛藤のシーンだとすれば、それで60枚。
更に7枚の芝居どころが5ヶ所あって、35枚、計95枚。
あとは効果を引き出す為の1枚、2枚のシーンが並ぶわけで、
トン、トン、トン、ドーン、トン、トン、ドーン、トン、トン、ドーン、ドーン、トン、トン・・・・読者を惹きこむには、先ずリズムだ。
「音痴にはシナリオは書けない」これは、私が尊敬している先輩の言葉だ。
**********************************************
リズムに関しても、北方謙三がハウツー本で答えていたことと、同じ考え方だ。
とてもオモロイ。
PS:この先生の名前は明かさない。
ライバルは、少ない方がイイ。
(なーんて、有名なブログなようなので、検索したらすぐわかっちゃうけど)