小説を書くという行為は、きっと知的な総合格闘技なのに違いないと思ってきたが、
東大で実際に講義されたという、この書籍で述べられている文学部テキストの内容も、
まさに文学の総合格闘技と言える内容のものであった。
これから新人賞を狙う向きには、決して読んで欲しくない。
正直に言うと読み終わったとき、そう思うしかなかった。
だったらホントは、ここに書くべきではないんだろう。
★「東大で文学を学ぶ ~ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ~ 」
辻原登著 朝日新聞出版 1,500円+税 2014.6.25.第1刷発行
横光利一「純粋小説論」、小林秀雄「私小説論」、柳田國男「山の人生」、
ドストエフスキー「罪と罰」、フロイト「家族小説」、「源氏物語」、「古事記」、
そして谷崎潤一郎「夢の浮橋」へと講義は流れていく。
その間には、辻原登による小説観や、さまざまな文学的な知見が散りばめられており、
そういう話にも痛く魅了され刺激されてしまう。
そして、それまで講義してきた内容が、すべて最終章の谷崎論に集約されるのだった。
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谷崎をマゾヒズム、フェティシズムやペデラスティ、いわゆる少年性愛、エキゾチシズムや母恋、
こういったタームで文学研究者は論じますが、ほとんど谷崎をかすりもしない。
そうではなく、彼の趣味、傾向、偏愛は、
これまで論じてきたメインのストーリーに奉仕するために
彼自身がでっち上げたものなのです。
自分の中ででっち上げて、それを使って壮大な物語を作るということ。
彼が生涯をかけてやったのはこのことなのです。
最初からそのように考えてやったわけではないでしょう。
作家は徐々にテーマを見出し、架構し、それを実現してゆくのです。
彼の作品のさまざまなテーマと構造に奉仕するためのモチーフとして、さまざまな意匠がある。
松子婦人さえ、彼の文学に奉仕するために呼び寄せられたとも言えるでしょう。
関西という風土さえ、彼にとって、彼の思想の、
趣向の実現のための文学的材料と意匠に過ぎなかったのかもしれません。
小説は秩序立てられて語られる夢であると、私は思っています。
小説は作家の頭の中の妄想、夢に過ぎない。
これをいかに言語化して、自分の夢を他者にも理解できるものにするか。
リアリズム小説というような呼び方は、本来は小説にとっては何ものでもないのです。
ただ、その夢の語り方の問題です。
見事にこの夢を谷崎は生涯をかけて語り尽くした。
亡くなったのは七十九歳ですが、
彼の生涯そのものが、また十全に展開された夢そのものであった。
つまり、彼の生涯はわれわれにとって、一つの壮大な夢として味わうことができるのです。
(略)
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★同書 「谷崎は作家精神に充ちている」P.270より抜粋
この節の前で、
「夢の浮橋」が「源氏物語」を見事にパスティーシュしたものであるという解説を
詳細に展開してみせた著者による、
これは谷崎研究の結晶した文章なのであった。
シビれてしまうより、他はないのだ。
この書籍は、「色彩をもった文学のブルース」に他ならない。
PS:オイラは今、「色彩のブルース」を聴きながら洋酒をあおって、
二重にも三重にも、心底から酔っている。