評論というものは、
その対象となる書籍を真剣に読破しなくてはならないので、
そういう仕事を売れっ子作家が手がけるには、
制約が大きすぎてなかなか実現できないようだ。
(あの小林秀雄だって、晩年は疲れ果てて書籍評論を止めたくらいだ)
今日はいつもとちがう大きな書店に行った。
林真理子の書籍や名札を忌避しながら、村上春樹の書籍へ向かう。
この忌避すべき作家の書籍は、すべて処分する予定だ。
いつもの小さな書店にはないシリーズを目にした。
文春文庫にあるシリーズだ。
その中の一冊が、たいへんに有益だった。
★「若い読者のための短編小説案内」
村上春樹著 文春文庫 476円+税 2004.10.10.第一刷 2012.2.5.第七刷
村上春樹の書籍にしては、不振を極めている。
しかし、だからこそ価値がある。
まずここには、短編小説を書くにあたっての村上春樹的な創作の概念が、
隠し立てなく書かれている。
赤川次郎的な一面すら垣間見ることができる。
書き手を目指す人に、参考にならないわけがない。
(短編小説を対象にした新人賞が少ないのは残念だけど)
次に、ここでは米国の大学で、彼が実際に教鞭にあたった日本の短編小説が6作、
紹介・批評されている。
吉行淳之介「水の畔り」、小島信夫「馬」、安岡章太郎「ガラスの靴」、
庄野潤三「静物」、丸谷才一「樹影譚」、長谷川四郎「阿久正の話」
村上春樹という書き手から見た批評というわけで、
通常の批評とはひと味もふた味も違った所見が述べられていると思われる。
つまりそこには、書くという行為にとっての大きなヒントが散りばめられているのだ。
(内緒にしたいので、詳しく書かないんだけど)
読み終わって、安岡章太郎「文士の友情(新潮社)」という書籍の中で、
村上春樹は○×に似ていると書いてあったのを思い出した。
ひょっとして、長谷川四郎かもしれないと思って、書籍をめくってみた。
村上春樹の語る長谷川四郎は、オイラから見れば村上春樹そのものだからだ。
(ややこしい?)
残念ながらそれはオイラの思い違いで、次のようにあった。
「まず村上春樹、さしあたりあの男が昭和初期の龍胆寺雄(りゅうたんじゆう)さ」
(同 P.15より)
その理由は書籍をあたってもらうとして、次の語りが笑えた。
「村上が龍胆寺雄なら、島田雅彦は吉行エイスケさ」
(同 P.16より)
伴に、安岡の親友である吉行淳之介が語った言葉だ。
「最後まで読み通せない文章を書くから」というのがその理由だという。
島田雅彦って、石原慎太郎には怒鳴られ、吉行淳之介にも嫌われ、
どーなってるんだろうって思う。
可哀想な作家だよなぁ。。
PS:米国について驚きの所見があった。
プリンストン大学の東洋学科・学部図書館は、
日本で出版された書籍・資料が信じられないくらい豊富なのだという。
日本の作家も密かに、CIAから声がかかるのかもしれないと思わせるような現実だ。