自分は有限、相手は無限。こういう状態で、これではいくら頑張った処で、努力した処で、勝ち目はない。 こんなことが、この日記では時々出てまいりました。自分は終わりますが、相手は終わらないのである。相手とは言うまでもなく、自然であり社会である。
中国の3世紀の竹林の七賢(ちくりんのしちけん)を思い出す。
竹林の七賢とは、3世紀の中国に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した七人で、政治や社会のことを離れて雑談や会話をした人である。こんな生活がどれほど、充実したものであるか、あるいは自分を取り戻す生活であるかと、あこがれる。
ならば、この「みん株」などさっさと止めて、隠遁生活をすればよいのに、止めないのはなんだろうかと思う。尽きるところ、「このおいらは、ここにいるぞ」ということになる。隠遁生活と言っても、やはりそれなりに何らかの社会との関わりもある。ここに自己の矛盾を感じる。しかし、これも現実なんだから、このことだけで、悩むことはなかろう。
今日は、「緑の日」である。確かに、若葉が、埃や虫に食べられなくて、きれいである。草も生えてくる。前の空き地で、小さなバッタの跳躍を見た。5ミリほどの体長が60センチほど、跳ぶものだから驚く。20日ほど前は、たんぽぽの黄色の花があちこちに咲いていて、これもきれいだと思った。そのたんぽぽは、白い種子になっている。
限られたことばかりである。これからどうするか。空は薄い雲である。14時05分。