幕末から明治にかけて住友の経営トップとして辣腕(らつわん)をふるい、「東の渋沢(栄一)、西の広瀬」とうたわれた広瀬宰平は、さまざまな事業に取り組んだ。別子銅山の近代化だけでなく、製鉄・化学事業、さらには海運業にも乗りだした。
▼当時、西日本の大動脈は、瀬戸内航路だったが、外国汽船と日本の汽船会社が入り乱れ、安値合戦が過熱。どこかの国のように安全性がおろそかにされ、事故が相次いだという。
▼事態を憂えた彼は、渋る中小汽船の船主を団結させ、大阪商船を設立。初代頭取となった広瀬は、海運によって交易を盛んにし、「国家文明の万一を裨補(ひほ)(助け補うの意)せん」と開業式で高らかに宣言した。
▼大阪商船は、日清・日露戦争を経て急成長し、日本屈指の海運会社となった。後に三井船舶と合併、商船三井となったが、創業130周年を迎えた今年、とんでもない災難が降りかかった。戦後に吸収合併した会社が日中戦争直前に結んだ契約をめぐる紛争で、大型運搬船が突然、中国当局によって差し押さえられたのだ。
2014.4.26 03:18 (2/2ページ)[産経抄]
▼結局、40億円もの供託金を払って差し押さえは解除された。このままでは中国での事業が立ちゆかなくなる、という苦しい事情は察するが、「戦後賠償で日本企業を脅せば簡単にカネを払う」という前例をつくってしまった。言い掛かりをつけたヤクザに法外なみかじめ料を払って商売をさせてもらうようなものである。
▼広瀬の嘆きが聞こえてきそうだが、日本政府は、裁判所が29億円もの損害賠償判決を下してから7年近くも何をしていたのか。中国が戦後賠償を放棄した日中共同声明の精神に反する、となぜ主張しなかったのか。中韓が仕掛ける「歴史戦」にまなじりを決して立ち向かうときがきた。