「新自由主義」なる批判について、別サイトでコメントしたので備忘録的にメモしておきます。
未だにこういう不可解なことを言うヒトがネット内では結構、多数派。 マスコミや文化人(?)にも多いようです。
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でも、経済的「自由」を拡大したほうが、経済は明らかに成長するので、多くの人が豊かになれるでしょうね。
また、人間の能力は正規分布的なので、経済的自由を拡大すると貧者も富裕者も少数派になるでしょう。
中間層が必ず多数派になっていく。
そして、「自由」で階級がありませんから、貧者も富裕者も固定化しないでしょう。 固定化しないからますます階級化が進みにくくなる。 これは公正ですよね。
そういう社会のどこが悪いのでしょうか? 公正で豊かな社会のどこか悪いのでしょうか?
経済的自由を拡大し、多くのヒトが豊かになれば、国民の力は相対的に強くなるので政治的「自由」も拡大していきます。 圧政も起きにくくなります。
それに自由度を高めたほうが、高まった豊かさを使って、「それぞれの」幸福を追求できるようになります。
犯罪的なことでない限り、自由度を高めることには何の問題もない。 メリットばかりです。
犯罪か否かの判断も司法の場を使って国民自身が行うべきで、官僚や政治家の独断で決めることではないですね。
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規制「緩和」とは上記で書いたように経済的「自由」を高める、経済活動の自由度を高める、ということである。
自由度を高めた結果、犯罪的な行為も当然出てくるでしょう。
しかし、それは個々に司法の場で裁かれるべきことです。
規制を強化して、犯罪的でないこと、サービス向上・製品向上につながることまで役所の意のままに規制するのは間違い(国民益にマイナス)。
近頃、規制「改革」という名の規制強化が横行してますが、規制緩和と規制改革は全く異質なものです。
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自由度が高まると、ギブ&テイクが保たれるようになります。
つまり、義務と権利がイーブンになっていく。
たとえば、経済的自由が拡大すると何が働くか? 市場原理です。
これは、「より良いサービス、製品、労働により高い価格、報酬がつく」という原理です。 つまり公正原理。
経済的自由度を高めると、お互い、損をしないように取引し合う中で、時系列平均的に公正が保たれるようになる。
逆に自由な取引が規制されると、こうはなりにくい。 そこには必ず、規制に応じてどちらかへのバイアスがかかり続けるからです。
では、政治的自由が拡大すると何が働くか? やはり、そこには市場原理的なものが働くのです。 一方的に義務を負わされるのは皆、いやだから自ずとそうなっていく。
自由と権利、義務は矛盾しない。 むしろ、権利と義務を高度に持続的に均衡させるために自由度の拡大が必要なのです(自由=権利でなく、自由があるから、お互いのせめぎ合いの中で権利と義務が生まれ、そして均衡化していく、、、それが現実世界で起きること)。
それを選挙で選ばれたわけでもない官僚に一任するとどうなるか?
とめどもない不公正の拡大、権利と義務のアンバランスが起きてきます。
こういうのは持続不能でない。
どこかの時点で大きな変化、激変が起きることになる。
経済的にも政治的にも激変を防ぎ、社会を安定的に発展させ続けるには自由度の拡大がポイントです。 自由度を拡大させると、小さなせめぎ合いが絶えず起きることで、経済的もしくは社会的公正がある振れ幅の中で保たれ、激変が未然に防げる、、、そういうことです。
政治的に言うと、「自由、権利」vs「義務」ではなく、自由度の向上で権利・義務は均衡化していき、そして激変は起きにくくなる、、、そういうことです。
(補足) 自由の拡大を求める動きは、人々が日々、豊かになろうと経済活動し、富を蓄える=力を蓄える中で自然と強まってしまう。 人々が生きていくために経済活動を続ける限り、自由度拡大の圧力は絶えず働き続ける。 人々が小さなせめぎ合いに倦んできたとき、官僚支配や専制を望む空気は生まれるが、それは不公正を際限なく拡大させるので持続しないし、激変を起こすので中長期的に見れば全てのヒトにとって損な道です。