主人公サムを探偵として雇ったロンスキーという男に、
「この世に偶然なんてものはない」と作中、度々語らせたあとで。
少し長いが引用する。
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「率直に言わせてもらおう、作家先生。あんなものを読みたがる人間なんぞ、この世にひとりもいやしない。人々が必要としているのは希望となぐさめだ。生きる意味を見いだすことのできるリアルな物語だ。ところが、あんたの小説はどうだ。あんな退屈なだけの話は、読む者を動揺させるか、混乱させるかのどちらかだ。ただでさえこの世は動揺と混乱に満ちているというのにだ」
バックの指摘には一理あった。この世には、名作と呼ばれる作品がすでに何千、何万と存在している。日一日と数を減らしていく図書館の棚に、誰に触れられることなく埋もれている。だが、それがなんだというのか。この世に生まれでた本の大半は、たちどころに忘却の彼方へ追いやられていく。ずたずたに切り裂かれて塵となり、風に吹き飛ばされていく。これまで、どれほどの傑作がそうして失われてきたのだろう。もはや誰ひとり読むことのできない言語でつづられた傑作が。誰の記憶にも刻まれることのない傑作が。
それでも、この地球上に生を受けたからには、与えられた時間を埋めるために、ひとはかならず何かをしなけりゃならない。もしも運よく昼どきまで生きていられたなら、ぼくはこれから何をしようか。家の壁にペンキを塗ろうか。車を売ろうか。癌の治療法を探そうか。下院議員に立候補しようか。
まさか。どんでもない。いま挙げたもののどれひとつとして、ぼくにはまともにできやしない。だったら、ぼくはもう一度はじめから『会陰』を書く。そしてもし、いつの日かとんでもない幸運がぼくに訪れたなら、悲嘆に暮れるべきペンキ職人か、自暴自棄になった自動車販売員か、孤独な腫瘍学者か、生存の危機に瀕した下院議員か、あるいはやり場のない怒りをもてあます素人詩人が、ぼくの書いたものに偶然目をとめてくれるかもしれない。埃をかぶった元古書店の片隅でペンを握り、彼らのためにだけに書き残したメッセージに気づいてくれるかも知れない。自分以外には誰も理解できないときみが思いこんでいた秘密の言葉で、きみ自身もほとんど忘れかけていた秘密の言語でつづった、ぼくからのメッセージに。ページとページのあいだからかすかな声でささやきかけてくる、きみだけに向けたメッセージに。
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★「ミステリガール」
デイヴィッド・ゴードン著 青木千鶴訳 早川書房 1,900円+税 2013.6.15.発行
P.521~P.522より抜粋
「やり場のない怒りをもてあます素人詩人」という表現が、
「あるいは」という語を伴って、新規挿入されている。
「偶然など、この世にはほとんど存在しない」というテーマを、ロンスキーに語らせている以上、
この新規挿入された言葉も、偶然としてかたづけるわけにはいかない。
酔っ払ってはブログでくだを巻き続けてきたオイラは、素人詩人だったのだ。
前作「二流小説家」に出てきた「シンシン刑務所」という言葉も、同様だ。
三浦しをんの「まほろ駅前番外地」に出てくる「クスリ屋のシンちゃん」も、同様だ。
村上春樹の「1Q84」に出てくる「シビックハイブリッド」も、同様だ。
これらはすべて意図的に表現されたものだ。
オイラにはそれが、明らかだ。
神社で不思議体験をしたオイラの実績を知っている村上春樹の、ささいな悪戯が発端だとしても。
ひょっとして、オイラをオモチャにして書いたら売れるのかも知れないという、ささやかな期待が発端だとしても。
オイラは、嬉しくってしょーがない。
「きみがやった IT 談合との闘いは、間違っていない」という、これら一連のメッセージに。
ところで、オイラは昨年、電動のこぎりで左手の中指先端をほとんど切り飛ばしたことがあった。
「ミステリガール」の主人公サムも、敵との戦いの最中、
ハサミで両手の小指第1関節を切り飛ばされてしまう。
(でも、あとでくっつくところまで同じだ)
それと、オイラのペンネームは、「サミュエル」だ。
「ミステリガール」主人公サムの本名も「サミュエル」だ。
何という偶然だろう。
あー、「この世に偶然などほとんどない」というのなら、これはもう神懸かりという他はない。
「伏見稲荷大社」の幟が、はためいている気配を感じている。