近くのスーパーでお茶を飲みながら、こんなことを考えた。外の景色が見えるテーブルと椅子に一人、ぽつんと座っていた。他には誰もいない。
舎利子さんに伝えます。物体(ここでは色と表現している)そのものは無いのです。無いもの(空=くう)は、無いものでもなく、物体として存在するのです。矛盾していると思いますが、物体(色=しき)は、そのものは無いのであり、(それでは全く無いかというと)物体として存在しているのです。これは万物の生成と消滅を言ったものであろう。
例えば、舎利子さん。あんたの目の前にある、様々なものは、元々そこには無かったが、誰かが作った椅子とかテーブルとかとして存在し、やがてその椅子やテーブルは壊れてしまい無くなってしまうのです。つまり、有るものであっても始めからそこに有るのではなく、誰かが作ったからそこに有るのであり、それは永遠に絶対に存在するものではなく、消滅してしまうのです。まずこのことを認識すべきです。万物流転するである。
舎利子 (しゃーりーしー)
色不異空 (しきふーいーくう)
空不異色 (くうふーいーしき)
色即是空 (しきそくぜーくう)
空即是色 (くうそくぜーしき)
次にこのことを考えた。よく禅宗では「生きとうない。死にとうない」と言うが、これは自然の世界と己が一体になれば、そのような心の状態では、この「俺だ俺だ」といった自己とか「もっと綺麗になりたい」という望みとかは、存在しなくなる。自然の中に組み込まれた自己ということになるので、自然と自己を区別出来なくなるので、欲望を言う事もなくなり、また不安や苦しみ(四苦八苦)もそこには存在しないことになる。
もし欲望を言えば、自然が欲望をいうことになり、不安や苦しみがあれば、自然に不安や苦しみがあることになる。しかしこの自然には、「俺が俺が自然」だとか、「もっと綺麗になりたい」とか言う事はないのである。そのような状態になることが、この仏教の考えなのだろう。
しかし、ここで問題が生じる。ここで自然を社会と考えれば、自分がどのような境遇になっても、不満は出ないことになる。現実の社会では、人は不満だらけである。社会には不正や犯罪がある。この社会と己が一体なら、不正や犯罪が有っても、平然としていられるのに、そうならないのは、やはり社会と自己を区別していることになる。
ぼーとしていると、15分くらい経過している。なんだか分からん。