- 社会主義運動の理論的指導者 イギリスが舞台 私たちは産業革命によって
生まれた社会の延長に生きる
バラカンさんは、お土産にシュガーポットを持ってきてくださいました。
今日のテーマである「産業革命」は、砂糖と深い関係があるいいます。
今回のナビゲーターカール・マルクスは、社会主義運動の理論的指導者です。
ドイツで生まれましたが、ロンドンに長く暮らし、イギリスの大きな変化を間近に見てきた人物です。
「いかにすれば、すべての人々が幸せに生きていけるのか。」
この問いに対して、マルクスが出した答えは、その後の世界に大きな影響を与えることになります。
今回の舞台は、18世紀後半から19世紀のイギリスです。
当時のイギリスは、経済の中心が農業から工業に移り、それにつれて人々の働き方や暮らし方も変わりました。
それが産業革命です。
産業革命のおかげで、生活は格段に便利になりました。
しかしその分、あるいはそれ以上に、さまざまな問題が噴出しました。
私たちの暮らしは、産業革命によって生まれた社会の延長上にあるものです。
そのため、私たち自身に関わる問題でもあり、“昔のこと”と侮ることはできません。
18世紀後半から19世紀といえば、日本は江戸時代から明治時代にかけての時代でした。
日本の産業革命は、明治時代のことであり、イギリスからも多くのことを学んできました。
- 17世紀に木綿がインドから 毛織物業を圧迫したため 代わりに綿花を輸入して
輸入されるようになった 木綿の輸入を禁止 国内生産を始める
まずは産業革命の歴史を見ていきましょう。
最初の産業革命は、イギリスで起こりました。
この世界史上の大事件は、工業の急速な発展によるものです。
そのきっかけは、17世紀以降、インドから輸入されるようになった木綿製品でした。
イギリスの伝統的な「毛織物製品」と比べ、木綿は肌触りがよく、洗濯も簡単でした。
また染色や刺繍も楽にできたため、大人気商品になりました。
しかし、それゆえに毛織物業を圧迫したため、イギリス政府は木綿製品の輸入を禁止してしまいます。
そして原料の綿花を輸入し、国内で製品化するようになります。
はじめは糸車で糸を紡いでいた 紡績機の発明で一度に何本も糸を紡ぎ出せ
るように
18世紀中頃からは、生産性を高めるための工夫、すなわち「技術革新」が次々と現れ始めます。
木綿の糸は、「糸車」という道具を使って、職人が一本ずつ紡いでいました。
しかし、「ジェニー紡績機」が発明され、一度に何本もの糸を紡ぎ出せるようになります。
川のそばに工場を建設し、水力紡績機で大量生産されるように
人の力ではなく、水の力で機械を動かすというアイデアも生まれます。
川のそばに工場が建てられ、数百人の労働者を雇って大量生産が始まります。
蒸気機関の実用化で生産力が飛躍的に向上 川沿いに限定されることなく、各地に工業都市が誕生
技術革新の中で、生産力を飛躍的に高める要因となったのは、何より「蒸気機関」でした。
この発明によって、工場の建設地は川沿いに限定されることがなくなり、イギリス各地に新しい工業都市が
誕生しました。
現在の私たちが暮らす、「工業化した社会」の原点は、ここにあります。
- 製鉄業や石炭採掘業も発展 蒸気船や蒸気機関車が実用化 鉄道が次々と開通し
木綿産業に続いて、製鉄業や石炭採掘業なども発展していきます。
機械を作るには大量の鉄が必要であり、蒸気機関を動かすには石炭がなくてはなりませんでした。
蒸気機関は、蒸気船や蒸気機関車で実用化され、運搬や移動の手段にも利用されました。
その後、続々と鉄道が開通するなど産業が急速に発展していき、それにつれて人々の生活も大きく
変化していきました。
バラカンさんは、小学生の頃に身に着けるものはほとんどウールでしたが、チクチクして着心地が
あまりよくなかったといいます。
その後、中高校生の時に、アメリカからファッションとして入ってきたジーンズやTシャツ等の木綿を
身につけるようになります。
古着を買い、バスタブで好きな色に染めるということを、よくやっていたと話します。
このように木綿は使いやすく、洗いやすいという特徴から、広く利用されるようになりました。
- イギリスは産業革命の条件を 木綿の原料=綿花を栽培する イギリスは石炭や鉄鉱石に
満たしていた 植民地があった 恵まれていた
産業革命がイギリスで始まったのは、
① 技術革新を行うことができる技術力
② 工場で働く労働者
③ 製品および動力の原料
④ 自由な生産活動を保証する制度
⑤ 工場や機械などに投資する資本
⑥ 商品を購入する消費者
といった、いくつかの条件をイギリスが満たしていたためです。
その中から「原料」と「資本」について見てみましょう。
「原料」とは、木綿製品でいえば綿花です。
イギリスは、インドやカリブ海の島、北アメリカなど綿花の栽培に適した植民地を持っていました。
また、イギリス本国が、石炭や鉄鉱石に恵まれていたということも重要でした。
また、バラカンさんがお土産に持って来た「砂糖」と関わってくるのが「資本」です。
17世紀から18世紀にかけて、イギリスは砂糖などを取引することによって莫大な利益を上げました。
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リバプールはイギリスで
最も繁栄していた港町 -
建物に残る当時の
取扱品を刻んだレリーフ - 壷の中には貴重品だった砂糖
イギリスのリバプールは、この取引によって当時もっとも栄えた港町です。
その頃建設された建物の壁に、主な取扱品が刻まれたレリーフが残されています。
そこに刻まれているのは、砂糖が入った壺です。
イギリスが砂糖などを用いた取引が「三角貿易」です。
- アフリカへ火薬や銃を持ち込む
- 銃や火薬を黒人奴隷と交換
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カリブ海の植民地で
奴隷を降ろす
イギリスの商人は、アフリカへ火薬や銃を持ち込んで黒人奴隷と交換します。
次に、船をカリブ海の植民地に向け、そこで奴隷を降ろします。
- 奴隷は砂糖などの物産に交換
- 三角貿易で富が蓄えられる
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世界の工場と呼ばれ
覇権を握ったイギリス
奴隷の替わりとして、砂糖などの物産を積み、イギリスに持ち帰ります。
貴重品だった砂糖はイギリスに莫大な富をもたらします。
この三角貿易で蓄えられた富があったからこそ、産業革命はイギリスで始まることとなりました。
砂糖と産業革命の関わりを考えると、「数あるヨーロッパの国々の中で、なぜイギリスで産業革命が
始まったのか」も見えてきます。
世界に先駆けて産業革命を成し遂げたイギリスは、製品や技術、資本などを輸出するようになります。
そうすることによって「世界の工場」と呼ばれ、世界経済の覇権を握るようになりました。
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19世紀末 イギリスを基準として
標準時が定められる -
標準時の基準となった
旧 王立天文台 -
地球上の東西の中心
経度0°にもなっている
その繁栄ぶりは、現在にも影響を残しています。
たとえば、私たちの生活になくてはならない「時間」がその一つです。
19世紀末、世界で共通の「標準時」が定められます。
その際、基準とされたのが、ロンドン郊外にある旧 王立天文台(グリニッジ)でした。
さらに、この天文台は地球上の東西の中心、すなわち経度0°でもあります。
この時代、イギリスは時間や空間の基準となるほど世界の中心であり、世界の主導権を握っていました。
イギリスの切手にだけ国名がない(左写真-左)のは、大英帝国として繁栄したことに由来
日本とイギリスの切手を比べてみます(左写真)。
日本の切手には「NIPPON 日本郵政」と記載されてあるのに対して、イギリスの切手には、国名が
記載されていません。
これは、「世界の中心なので、国名を記す必要がない」という感覚から来ているといいます。
切手に国の名前が記載されていないのは、イギリスだけです。
バラカンさんは、
「イギリスは最近まで、長く『大英帝国』として繁栄してきたため、多くのイギリス人は無意識のうちに
自分たちが一番偉いと思い込んでいたところがあったのではないか。」
と話します。
- 新聞社に勤めながら社会主義に惹かれていったマルクス
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当時は王や貴族が
実権を握る身分社会 -
新聞社をクビになり、諸国を
放浪した後ロンドンへ
産業革命はイギリスを豊かにし、人々の生活は、その分便利になりました。
その一方、マイナス面もありました。
そのマイナス面に一石を投じたのがマルクスです。
マルクスは現在のドイツに生まれ、大学を出て新聞社に勤めていました。
やがてマルクスは社会主義、すなわち「より平等で公正な社会を目指す思想」に心惹かれるようになります。
しかし当時は、王や貴族が実権を握る身分制社会でした。
ドイツの新聞社をクビになったマルクスは、諸国を放浪します。
その末に居場所を見つけたのが、ヨーロッパの中でも「自由主義の風潮が強いイギリス」のロンドンでした。
- 単なる労働力だった労働者は14〜15時間労働を強いられ 低賃金の女性や子どもが過酷な労働環境に
しかしマルクスは、そこでも虐げられている人々の姿を目にすることになります。
「資本家と労働者」という、新たな階級が生まれていました。
労働者は、毎日14〜15時間にも及ぶ労働を強いられる、単なる「労働力」として酷使されていました。
しかも、機械化が進んで単純労働が増えたため、より安い賃金で雇える女性や子どもが過酷な労働環境に
さらされていました。
労働者を支えていたのはたった一杯の紅茶 労働者の平均寿命は20歳に満たなかったとも
信じがたいことに、そんな人々を支えていた食事が、たった一杯の紅茶でした。
彼らは、覚醒作用のあるカフェインが含まれる紅茶に、吸収の早いエネルギー源である砂糖を入れます。
そして、それを飲んだだけで、仕事に出かけていました。
結果として、「当時の労働者の平均寿命が20歳に満たなかった」ということも、うなずけるものです。
劣悪な住環境でたびたび伝染病が流行 犯罪や貧困も大きな問題となった
労働者の住まいも、酷い有様でした。
人口が集中して膨張した都市では、上下水道をはじめとするインフラの整備が追い付きませんでした。
そのためコレラをはじめとする伝染病が何度も流行し、犯罪や貧困なども大きな問題となっていました。
平等で公正な社会を求め30年に及ぶ研究生活を続け『資本論』などを発表 産業革命を嘆く歌もあった
マルクスは、どうすれば「平等で公正な社会」を実現できるのか、その答えを求めます。
そしてロンドンの図書館に毎日朝から晩まで通い詰め、資料を収集し、研究に励みました。
修行僧のような生活は、30年にも及びました。
その成果の一つが、マルクスの代表作である『資本論』です。
その後、マルクスの考えは世界中の人々に大きな影響を与えます。
しかし、本当に平等で公正な社会は、未だどの国も実現できていません。
バラカンさんは、産業革命と言えば、「Jerusalem(エルサレム)」という歌を連想するといいます。
イギリスの第二の国歌というほど、イギリス人で知らない人はいない歌です。
その歌詞には、
「ここにエルサレム(=極楽)がつくられたのか。こんな暗いサタン(=地獄)のような工場の間に。」
という部分があります。
ここで「工場」とは、産業革命のことを指しています。
作者のウイリアム・ブレイクは、産業革命に批判的な立場でした。
そのためJerusalemは、
「かつて極楽のような、穏やかで緑にあふれたこの土地が、産業革命のためにこうなってしまった。
再び牧歌的な あの様子が戻ってくるだろうか。」
という嘆きを歌ったものでした。
このように、イギリス人にとっても産業革命には負の側面があるといいます。
特に工業都市では、このような暗いイメージが強いと、バラカンさんは話します。
日本においても、産業革命の発展の裏には、“闇”の部分がありました。
若い女性が長時間劣悪な環境の中で働かされ、中には命を落とす人もいました。
『女工哀史』や『あゝ野麦峠』という作品は、そのような女性労働者の様子を描いた作品です。
産業革命は、労働者の生活の貧困や、都市の治安の悪化といった社会問題を引き起こしました。
さらに、現代の大きな問題である、環境問題の原点でもありました。
産業革命の中心的な技術革新の一つは、石炭を使った蒸気機関の導入であり、これが一番大きなものでした。
20世紀に入ると、石炭に加えて石油なども使うようになりました。
石炭や石油などの再生不可能な資源を化石燃料といいます。
化石燃料を大量に使う社会になったのは、この産業革命がきっかけでした。
しかし、これによって現在、地球温暖化の問題がとても深刻になっています。
化石燃料は燃やすことによって地球温暖化の原因の一つと考えられる、CO2(二酸化炭素)を排出するからです。
世界では現在、CO2を極力出さないようにと、協定が結ばれるなどしています。
しかし質が向上した、今の私たちの生活の豊かさの原点には産業革命があります。
技術革新が連鎖的に次々と起こることで、私たちの社会は現在の豊かさを手に入れてきました。
そのため、産業革命のプラスの側面とマイナスの側面を、バランスという観点からよく見ることが重要です。
そして、産業革命に負の側面があるということを知った上で、慎重に技術革新を進めていくことが大切です。