何か生きがいを(5) 8月29日(木)14時33分

堅実さん

 何か生きがいをで、考えてまいりましたが、人が行動を起こす場合、やろうか、止めようかに分かれる。やろうかというのは、現実に行動を起こす行動であり、止めようかは行動を伴わない行動である。止めようかというのは、何も行動しないとうことである。

 

 ここでは、真剣に何かに打ち込むことは、やろうかであり、怠惰なことは止めようかになる。どちらも人の考えである。一枚の紙に表と裏があるように、常に人の心は、この間を揺れ動いている。どうしようかと迷っている場合は裏とも表とも言えない。この相反する目的のどちらを選ぶかは、人の自由である。

 

 ここで、命が無限大ならば、人はこのことで、悩まない。いくら遅くても何とかなるからである。有限な寿命だから、どうするかと考え選択するのである。有限なものは大事である。ここではこの結論を得る。有限なのだから、やらないのではなく、やれるだけのことはやってみようを選んだのである。

 

 これがわたしの今までだった。そして不安定の心の状態で、迷いの中で、訳もわからずどうするかという疑問の中で、とにかく、活字を見てみようということだった。生きるための基本や、生きる上での土台をしっかり考えれば、後悔は少ないと判断した。しかしその途中、怠惰の誘惑に誘われたことは、度々ある。目の前の欲望や誘惑に負け、何度も挫折した。

 

 その中で、人として生きるとはいかなることかと、度々考えた。この方向もわからないまま、その中から、学習の中から出てきたのは、自己実現ということだった。

 

 この今ある自分を遠方から見るように、そのまま見つめ、怠ける心が浮かぶのを、あるがままに認識し、その怠け心のある状態の中で、形式的に活字を見ることにしたのである。始めは怠け心が強かった。それがこのような結論になった。何時しか、活字を見るのが苦痛でなくなったことだ。習慣とは恐ろしいもので、その習慣にこの脳は洗脳されている。

 

 また、一種の強迫観念もあった。このままの自分でよいのか。おまえは、これ程くだらん状態で終るのかという、常に迫ってくる観念である。何とか向上しろ、向上しろという強迫観念である。空虚のままでよいのかという迫るものである。この観念があり、何となく本をみているうちに、何時しか、習慣となってしまった活字人生である。そして哲学者でもないのに、あれこれ考える癖がついてしまった。

 

 今では、2日間、文字を見ないと、心の状態がおかしくなる。禁断症状が出る。そして文字でなくてもよいが、何か体験やら知識が欲しいという欲求が強くなる。おそらく、これは何かの精神疾患ではとも思う時がある。なぜもっとのんびりとは出来ないのかと思うのである。

 

 

 

 

 

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