古い日記やネット文献などを参考に、50枚ほどの読み物を書き上げました。テーマは「バブルの総括と教訓」です。そのエッセンスから……。
バブルの株価4本値
始値…… 8,000円(1983年)
高値… 39,000円(1989年)
安値…… 7,000円(2007年)
終値…… 9,000円(2012年)
4本値にすべてが凝縮され、同時に疑問も生じます。それを解き明かすことで、これからの相場が理解できます(太字は物語風解説付き)。
(1)バブルは通常の株価サイクルとどう違うのか
(2)バブルの原因は何か
(3)バブルを演出し弾けさせたのは誰か
(4)バブル前後で社会はどう変わったか
(5)失われた20年と表現された後遺症は、何故こんなに長期に……
(6)どんな株があがり、どんな株がそれほどでもないのか
(7)バブルの終了は本物か
(8)何故4年内に20,000円なのか
(9)バブル崩壊に備えてやっておくこと(明日)
(10)投資環境と需給の変化
バブルを演出し弾けさせたのは誰か
バブルはいつから始まったのでしょうか。プラザ合意のあった85年が有力ですが、私は株価が対前年度で2桁の伸び続けるようになった83年、株価8,000円をスタートとします。
以後株価は、2桁の伸びで上昇し、87年には20,000円を超え、89年末には歴史的な39,000円を付けて弾けました。きっかけは、89年12月に日銀総裁に就任した三重野氏の、大幅な公定歩合の引き上げにあるというのが定説です。ただ、私は株価のバブルを作り、それを弾けさせたのは外国人だと思っています。
89年のバブル最盛期に、日経平均採用の品薄株はストップ高を繰り返し、説明できないほどの高値にありました。当時の日本人は、この根拠のない値上がりにすっかり浮かれ、バブルを謳歌していたのです。
ところが、裏でこの値上がりを作っていた外国人がいました。彼らは少ない資金で品薄株を動かすことで日経平均を引き上げ、一方で大量に日経平均先物を売っていたのです。やがて運命の日が来ます。
90年になると、彼らは抱えていた品薄株を一斉に売り出し、現物株の下落で先物を動かしました。彼らは、先物のヘッジで莫大な利益を上げ、この仕組みを知らない日本の投資家たちは、呆然と暴落を見ているだけでした。こうしてバブルが弾け、日本はその後20年間長い不況に苦しむことになります。
バブル前後で社会はどう変わったか
80年代後半バブルの最盛期には、六本木、銀座、赤坂などの夜の盛り場は大盛況でした。日本中に札束が乱舞し、皆大金持ちになったような気分で遊びに夢中になったのです。夜の銀座ではホステスに腕を取られたサラリーマンが、タクシー待ちの長い列を作り、近距離客の乗車拒否が当たりまえの風景が毎晩のように見られました。
お金持ちは土地を、余裕のあるサラリーマンは株を、中小企業の経営者はゴルフの会員権を、ちょっと決断するだけで億という金が飛び込んできました。私のようなしがないサラリーマンでも、知見と資金を株に投資し、大きな成果を上げることができたのです。
株は買って持っていれば、誰でも簡単に儲かりました。「銀行よさようなら!証券よこんにちは!」のコマーシャルに引かれて、人は証券会社に列をなしたのです。この年の長者番付では土地成金と株成金が上位を占拠し、従来の常連である会社社長はどこにも見当たりません。
資産バブルは土地の値段をあげ、東京山の手線内の土地を売れば、アメリカ全土が買えるとさえいわれました。ゴルフの会員権でも億ゴルフが続出、小金井ゴルフ場は10億円出しても買えません。
「星影のワルツ」で紅白歌合戦に選ばれた千昌夫は、本業の歌でなく土地と株で財を成し、歌う不動産王と呼ばれました。ホノルルのホテルは、全部彼のものになるとのうわさもありました。10億20億は当たり前、100億もっていないと金持ちといわれないような状況でした。
学生の就職は絶好調、失業率は低下し、将来への夢が広がりました。「JAPAN AS
NO.1」とおだてられ、日本人が日本に誇りを持った時期でもあります。日本が一番輝いたときではなかったでしょうか。あの時代はもう来ないのでしょうか。今にして思えば「バブル万歳!」だったのです。
ところが、90年を境にして、経済も、社会も、政治も、国際情勢まで一変しました。
当時の消費者物価の上昇率は3%を切っており、物価の値上がりが庶民生活を脅かす状況ではありません。資産価格が異常に高騰しただけなのです。それでも、株、土地、ゴルフの会員権は、目の敵にされました。株も土地も持てなかった庶民は、日銀の資産つぶしの政策に、やんやの喝采を送ったのです。
95年ころまでは株価の大幅な下落はあったものの、公定歩合の引き下げや財政出動などで、景気はいずれ回復するとの楽観論もありましたが、金融機関の相次ぐ破綻と、金融支援を打ち切られたバブル企業の破綻のオンパレードで、景気は底なしに沈んでゆきました。
千昌夫も2000年には、3,000億円の負債を抱えて倒産。WASPといわれた不動産企業も相次いで姿を消し、ゴルフ会員権は買い手がいなくなり、財政赤字はGDPを超え、失業、就職難、年金と増税に対する不安……、国民は将来に対する夢を失ってしまいました。追い討ちをかけたのがリーマンショックで、株価はついに7,000円を割れ、25年前の水準に逆戻りしてしまったのです。
何とか生き残った資産家は、ほとんど利息のつかない預金かタンスにしまって、春の到来を待ち続けたのです。
バブルの終了は本物か
今回のバブルでは、バブルの知識も経験も乏しく、有効な対策が打ち出されないまま、バブル崩壊後の景気低迷が長引きました。政治も経済も、少子高齢化の下ではデフレ・円高が当たり前で、経済成長ゼロ下での株価低迷はやむをえないとする空気が支配するようになりました。
それにしても、バブル崩壊から22年も不況を引きずっているのは、通常の国ではありえないはずです。その流れを変えたのが政権交代です。12年末に行われた総選挙で、自民党の安倍総裁は、経済再生を選挙公約として、バーナンキFRB議長が取り入れた金融政策を日本に導入しました。
金融政策、財政出動、成長戦略を3本の柱とするアベノミクスで経済の再生を図りました。これにより、22年間続いたバブル崩壊後の不況は、ようやく終わりを告げようとしています。
その原因として、
1. 日銀の異次元の金融緩和により、デフレを脱却し、2%程度のインフレ目標を設定する。政府も日銀もこの目標を共通認識としてあらゆる手段をとる
2. 金融緩和の手段として、国債、ETFなどのリスク商品を日銀が買い上げる。株価アレルギーが解消し、株価を経済力の指数と考えるようになる
ことが根本にあります。
なによりも、不況がバブル崩壊の結果であり、その対策として株価を上げることに注目したことが大きいと思います。デフレ解消は、まだ期待の段階ですが、時間とともにはっきりしてくるでしょう。
チャートからは、89年の39,000円と07年の18,300円とを結んだ線を完全に上抜けているところから、今後11,000円を下回らない限り、バブルの終焉を告げています。
何故4年内に20,000円なのか
私は早い時期から、安倍内閣の4年間に、20,000円になるという目標を立てておりました(2012年12月24日の「私の年次報告書」をご覧ください)。
要約しますと、安倍内閣が経済再生を果たす手段として、株価を使うようにしたということです。株価は国の経済力のシンボルです。バブル崩壊の後始末にこれだけの時間が掛かったのは、株価が回復しなかったからです。
バブルは株価循環なのに、今までの政府、日銀は、社会問題として捉え、経済理論で再生しようとしたのです。バブルの後始末には、株価をバブル崩壊直前の水準にまで戻すのが一番なのですが。
それを安倍総理、黒田総裁とも、よくご存知のはずです。円安政策は周辺諸国との摩擦で限界がありますが、株価をいくら上げても、少なくとも外国から文句は出ません。政府は、参議院選挙と消費税値上げが確定するまでは、株価を上げようと手を打ってきます。これを理解できないと、現在の相場には付いてゆけません。