私の祖父は戦争中は朝鮮地方の方と暮らしていた

私の祖父は祖母は金魚屋の卸問屋をしていて戦争が無ければ資産を奪われる事はなかった。

 

そして住居を横浜に移したそして祖父は商売は上手では無かったが朝鮮地方の方々と畑を耕して共に

 

暮らしていた祖父は司法書士をしていて憲兵隊などに指導する立場だった、そして戦争は激化し

 

九州に疎開した祖母と一緒だったが祖母は不幸な死に方をした自動車運転など資格など成されていたり

 

道路が開発されていればこうはならなかっただろう。

 

そして伯父に正義感を教え戦争に送り出し大陸に送った伯父は戦いを好む方などでは無く現地の方々に

 

資金を貸して店を出させ現地で懇意にして通って慰安の時を過ごし世の中の戦況が激しくなるにしても

 

伯父がその地の平和を守っていた、そして帰国など行って食料やタバコなどを祖父などに持ち帰っていた。

 

そんな親族を持っていたのは私の心の財産である、そして母は女学校を卒業して東京に暮らしていたらしい

 

その頃から母は独立意欲が高く家で仕事をして暮らしていた、そして何度かの結婚の末に私の複雑な兄妹を

 

作った、その多い兄妹だが男の子供は私が一人で母は愛情を掛け育てた私も早熟に育って母の事業などを

 

理解し応援して意見をしていた、その頃はベトナム戦争で暮らしている地域は炭鉱の町で人が荒廃していた。

 

私は幼くしてある施設で平和を願う国際施設で平和維持軍と言う物が存在する事を知り志願をした。

 

平和を守るにはそれしか道が無かった、そして情報を集めベトナム戦争を早期に終戦させるために派遣された。

 

私はポルポトが主導しているのを知りポルポトを追ったのだ、そして終戦させベトナムに自立する様に意見し

 

帰国した。

 

そして、私は勤めながら各国を旅などを時折行い各国の主要な方と会話をして世界を影から動かしていた。

 

様々な問題を世界は抱えていたので危険地帯などが点在していたが会談して平和に共存虚栄を会話してた。

 

時は経ちエリザベス女王と会談する時もあったあの時女王は過去の私の功績を知っていて会話を和んだ。

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私はこの頃から得た資金など国内外で運用させるのに現金の手渡しなどしていた。

しかし今更証明出来ないだろうなどと言う様ならば父母の眠る墓石に参拝して

認めさせるだけだ。

私はCB電卓の設計書などは母に盗まれたと相談した時に母は会社に意見したのだが

会社はそれをもみ消し今では名前は残っているが貸ビル業をしている。

恩に報いない世の中だからこんな恐怖が起こったのだ。

1人の有能な者と力の無い者が組織を組もうが相手になるはずが無い。

こちらは質素に生活をすれば何れ時は訪れると解っているのだ。

恐怖の時など常時に置いて渡り歩いたので慣れている、今でも有事の事柄などは

対応出来るから余裕であり時は刻んでいるので時の恐怖を知らぬ者は味わう事だろう。

何れは昇る時は来るだろう。

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