秋子の退職(18) 24年10月14日(日)10時05分

堅実さん

つまらぬ事にこだわらず執着せず、もっと物事を柔軟に考えれば、生きやすいのではないか。極端な場合は、今までの価値観を一部捨て去ることも必要だろう。正反対な行動も生きるために必要な時もある。

 

犯罪行為はやるべきではないが、幾つかの選択肢の中から、自分はこうしようということは出来ると思う。そして常日頃から幾つかの、選択肢を選ぶ訓練、あるいは心の準備があれば、かなり困難は緩和されると思う。そうすれば、身体さえ丈夫ならば、今の世の中でも、何とか生きられる方法はあるのではないか。

 

明彦には、その生きてきた過程において、危急の時には、明彦の持つ、特殊なエネルギーとか能力とか言われるものが、身体の奥深くから出てくる。これは、一つには、いざとなれば、明彦の考え方、それは生活レベルが低くても、生きていればいいんだと思う気持ちが、幸いしていると言える。何がなんでも生きるんだという気持ちを持つ訓練をしてきたのかもしれない。日頃から自己暗示として頭の中に描き続けたのかもしれない。

 

こんな事で負けてたまるかとか、この困難を必ず乗り切ってみせるという気構えかもしれない。練習は不可能を可能にするという。時々自己暗示をかけることが、この頭の練習ではなかったか。それは、東日本大震災後の、地震や津波に対する訓練と共通する、頭のトレーニングとなっているのではないか。こんな事が、とにかく生き抜くんだという明彦の本能みたいなものになっている。

 

生きられればいい。そうです。これが明彦君の日頃から言っている底力である。泥だらけになろうが、汗臭くて鼻をつまんで人が遠ざかろうが、汚い作業服を着ていようが、激しい肉体労働で、夜はそのまま寝込んでしまおうが、心の中で、何時かは、生き抜いていて良かったと思える日が、必ずくると思う。

 

そしてこのことが、生命力とか、生きる力とか言うものではと、考えるようになっている。考えるに、これは明彦君だけでは無く、誰でも持っていることである。誰でも持っているのに、人はそのことに気づかないのである。

 

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」は、何とか、生きる方法を捜せば、場合によれば、それは死に物狂いになるかもしれないが、遂には見つかるという事ではないか。こんな事を考えると、次第に心の奥底で、生きるエネルギーが、生命力が、湧き出るような気分になる。

 

精神を集中し、神に祈り続けた後には、神からの救いの手が出ると、今は思っている。そう、旧約聖書にあるイスラエルの民が、モーゼに先導され、エジプトから集団逃走する時に、背後にエジプト軍が迫る砂漠の中で、神の炎は燃え上がるのである。イスラエルの民が助けられた様に、明彦君も神、言いかえれば、宇宙の何かの力により。助けられると思っている。

 

 

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