娘婿は、何となく生きていて、暇さえあれば、頭の中は、自分だけで遊ぶことだけである。一体、何を考えているのかと思う。極めて幼稚っぽいのかと思っている。そしてお互いに家庭のことは、相手が何もしないと言い争って、不満だらけである。
しかし、これはどうにもならない。なにしろ2人とも、頭の中で考えている内容が、普通の親が、子供に対して出来ることとか、子供の事を考えて生活するのとは、だいぶ異なる。一口で言えば、親としてどうかしている、通常の事が出来ない、異常であるとしか言いようがないのだから。そこには、幼稚な無責任が漂う。
子育ては、重労働では無いが、時間ばかり取られる。いや重労働かもしれない。一日中、時間を取られる。そんなことが明彦には分かっているので、その娘の家族4人が、前橋に来る時だけは、孫の面倒を、婆と明彦の2人で面倒をみるが、これは、ほんの一時だけである。根本の問題解決にはならないのである。
こんな、どうしようもない夫婦が、お互いに離婚するというのだから、もう好きなようにするがよい。しかし、気の毒なのは孫である。
そして娘婿の親父は、家庭内のことは嫁がすべてやるのがあたりまえという考えである。家の中が出来ないのは、すべて嫁が悪いと言っている。これも、どうかしている。男は仕事、嫁は家の中の全てをやらなければならないと考えているのだから、これまた困ったものである。この婿の親父の考えが、娘婿が家で子育てをしない原因になっている。大家族であれば、それも一部可能かもしれない。大家族であれば、子育てに幾分の余裕が生まれる。しかし、家族構成が大家族とは、異なるのである。
今の世の中で、核家族の母親は、孤軍奮闘しているのである。そして育児の疲れから、育児ノーローゼとか、育児の悩みに耐えかねて、子供の虐待やら、育児放棄やら、出てくるのである。
昭彦君の娘夫婦の場合、婿の父親は、我が息子が可愛くて、嫁が全てといって、いいくらい、悪いと考えているのである。ここには、息子への過保護であると思えることの一部が、ちらほら見える。あるいは古風な考えであり、今の時代感覚に合わない、ずれた価値観なのだろう。しかしまあ、これは、今後なるようにしか、ならないだろう。まあ、考えるに、この二人は離婚しないで、無責任な我がままを言い、その度に言い争っているのだろう。
その娘と孫の3人は、午後、両毛線で栃木に帰っていった。その後、運動不足解消と、図書カードの購入のために、自転車で、「けやきウォーク」に向かったのである。時間はどんどん、過ぎ去っていく。自転車に乗りながらも、時間が無い、時間が無いと思っている。
こんなことに、振り回されて、明彦君の時間が失っていくのである。しかしまあ、世間を考えてみれば、やりたいことも、やれないで生きている人は、数えきれないだろう。家庭の事情で、勉学も出来ずに、中学から仕事をしなければならない人とか、子供の育児では無く、親の介護で、独身でいた女性に話などは、聞いている。その親が亡くなった時には娘は50歳とかである。
家庭や家族のことで、こんなことを、言い出せばきりが無い。しかし、明彦君にはやらなければならない事、これだけは死ぬまでに完成させたいと、思うことがある。本当はこんな事にかまっちゃいられないのである。その夜の夕飯は、明彦君は無口で、もくもくと食べた。つまらないことを言えば、時間を浪費すると思えたからである。