明彦君は、時々、とりとめのない事を考える。一体、自分とは何者か。いろいろ毎日何かやっているけれど、それは何のためにか。
ある目標とか、基準を定めて努力しているけれど、それは何のためにか。どんどん考えていくと、最後には思考のループが有るようで、最初に戻ってくるようである。
この日記は、何のために書いているのか。まず、誰が読むかもわからないし、どんな人が読むかもわからない。誰に読んでもらいたいのか。それでは何のために、書いているのか。読んでもらいたいからである。それではと、更に更に考えていくと、これもループを一回りするようで、その先に進めない。
株式投資をしている人は、誰でも、これで何とか利益を得ようとする。これは生活のためであることはわかる。仕事もそうである。仕事をしなければ、収入が無いので仕事をする。それでは、生活のための、費用は一体どれくらい必要なのか。これもわからないし、欲を出せば限がないことは予想できる。
つきつめていくと、全く、わからないということになる。これでも、明彦君は相当の高齢なのである。それでは、若い時からみると、少しは考えがよくなったかというと、若いときのほうが、良い判断をしているようにも思える。というより、若いときと同じだと思う。違うのは、肉体が衰えていることである。思考も衰えているのかもしれない。
それでは、臨終の時にはどうだろう。やはり、今まで書いてきたようなことで、終わりになるだろう。それでは、その時までに、少しは、ましな事を言ってみたいが、それも出来そうにない。そしてこれは昔、明彦君より高齢の人の話を聞いたことでもわかる。明彦君の子供の頃、大人はすごい事を言っていたかというと、どうも、そうではなかった。
それでは、今の日本の有名人は、すこしはましな事を言っているかと言えば、どうもそうでもないらしい。大阪方面の、最近マスコミでよく出てくる若者は、少しはましな事を言っているかと言えば、どうも、そうでは無いと思う。原発には絶対反対と言いながら、最近、賛成の発言をした。それなら初めから、よく考えてから発言しろと言いたい。考えが浅はかであると思う。若者は敗北と言った。明彦君は薄っぺらいと言った。ぎゃあ、ぎゃあ、騒ぐだけでは困る。